三 武蔵野台地の形成とアキシマクジラ

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 そもそもわれわれ日本人の生活の基盤である日本列島 Japonesia が地球上に姿を現わすのはいつ頃のことか。地質学上からは、日本列島は今から約五億七千万年以前の先カンブリア時代にしばしば地殻の変動をうけはじめ、古生代の中頃は海底に没していた。デボン紀から石炭紀前期の海底では、火山活動が進行して、急速な沈降による海底には、泥岩・砂岩・火山砕屑岩が堆積していた。これらの堆積岩は温度の上昇、高圧作用によって変成岩にかわり、やがて隆起運動がおこって、島列ができ、それは古生末期に山列となる。そして四億年ないし三億四千万年前のデボン紀から石炭紀にかけて、日本海の中央部には、先カンブリア時代以来の陸地が半島状に突出し、日本列島は全域がまだ海底に眠っていた。やがて日本海北部から隆起運動がおこり、山脈列が発達をして、日本海全域がほぼ陸地化したが、石炭紀後期から二畳紀中期にかけて、日本列島域、とくに本州島域全般にわたって再び大規模な沈降がはじまった。約二億四千万年前の二畳紀後期になると日本列島は、日本海陸塊の東岸・南岸にそって再び海底に没した。けれども中国山地や、九州・四国・紀伊半島の背梁山脈の高い部分は、二畳紀後期にすでにはじまった隆起帯によって、小さな細長い島列となって海面上に姿を現わしはじめ、三畳紀からジュラ紀になると新しい大規模な隆起作用がおこり、約一億五千万年前と推定されるジュラ紀後期になると、本州・四国・九州の北半部は広い陸地となって、その中に局地的にいくつかの海盆が形成されていた。本州中央部には、沿海州方面から、細長く、陸地へ向って深いくいこみができ、大きな海湾が形成されていた。この時期には、南関東地域から静岡方面一帯、古東京湾も、関東山地も、武蔵野台地上のわが昭島市域ももとより海底に沈んでいたのである。
 本州島域の後期中生代の地殻変動は白亜紀に激しく展開し、本州島の内側はすっぽり陸地化され、火山活動も激化し、約九千万~八千万年以前の白亜紀後期には、北海道の中央部日高地方から樺太に抜ける狭長な海溝が通じていたほか、本州島も三陸沿岸・南関東・伊豆半島・紀伊半島・四国南部・九州南部など、南側の太平洋岸の突出部は殆ど海底に沈んでいたが、それ以外は全部陸地となっていた。したがって昭島市域は依然として海底であった。この状況は、約三千万年前の古第三紀までつづき、日本列島域は比較的変動の少ない安定した時代であった。したがって古第三紀まで日本列島は大陸の辺縁部を形成していたが、新第三紀に入ると再び地殻の変動が活発化してきて、陥没と火山活動が繰返されて地形の変貌が激化した。特に日本海側や、フォッサマグナ地域で陥没が起こり、そこへ海水が進入し、あるいは湖水が湛えられ、海底での火山活動が一段とはげしくなり、陥没盆地が更に沈降して、海域が拡大され、数千米の厚さの火山灰や泥土や砂が堆積し、緑色凝灰岩(グリーンタフ)と呼ばれる地層が形成された。こうした約二千二百万年前と推定されるこの中新世初期には、日本海側の地域に大規模な地殻の割れ目が生じ、陥没して、大陸と日本列島域との間に、今日の日本海の原形が生じて、日本海は細長い一大湖水の如き状況を呈していた。日本列島がやがて大陸から分断されて、今日のような島列をつくるきざしをみせはじめたのも、この時期であったが、なお日本列島はその西南と東北の部分で、大陸とつながっていた。しかし昭島市を含む武蔵野台地の地域は、房総・三浦半島を含めて、依然として海底であった。
 再び千四百万年以前頃の中新世末期になると、グリーンタフ噴出部に徐々に大がかりな隆起作用がおこり、海域は日本海側に移り、日本海は北部が大陸から分断されて海洋になった。太平洋側の隆起部には新たな陥没によって、多数の湖沼盆地が現われた。部厚い地層の隆起は横圧力を強めて、地層ははげしく褶曲する作用を現わした。本州島の地域は、この段階では北部が切れて、西南部で大陸につながり、日本海と太平洋の間に細長く突出した一大半島状を呈し、大陸時代の名残をとどめていた。
 かくて第四紀初頭以降になると、次第に日本列島の地域は、ほぼ現在のものに近い形態を示すようになる。第四紀洪積世のはじめは、なお第三紀以降の地毅変動の運動を反映して、西南部で大陸と陸続きであった。
 洪積世の時代はまた氷河時代と言われる如く気候の寒暖の変動が数回にわたって繰返され、氷河期とが交替して繰返された時代であった。氷河の消長によってひきおこされる海水面運動の影響を強くうけた、約三八万年前の洪積世中期には、間氷期の海水面の上昇によって、海蝕が行なわれ、当時の波蝕台や堆積面は、現在の海岸平野に接する中位段丘面として残されている。下末吉海進時代の海岸線を追ってみると、当時の日本列島は、朝鮮半島と九州とが陸続きで、なお大陸と連らなっており、大きく日本海をつつんでのびた一大半島状の本州島は、九州と四国とを連らねており、瀬戸内海は西部が陸地で、東部において紀伊水道を経て太平洋に連らなる内湾であり、房総半島は一大島として分立し、三浦半島から関東北部にかけては陸地化していたが、東京湾は北に抜けて相模湾と茨城海岸とは海路で通じていた。その関東西部における海陸の境界は丁度昭島市と立川市との間を南北に通じていたのではないかと推定されている。そして洪積世後期に入ると、ウルム氷河期の最後の海水面下降時代になり、陸地は最大に拡大され、北方において大陸と続いていた。西南部においては、朝鮮海峡が細長い海峡となって半島と切れていた。しかし対馬島や壱岐島は九州と陸続きであり、九州の南方はのびて奄美群島までつづいていた。隠岐群島も陸地と連らなり、能登半島は今日よりも倍以上広く、日本海中に突出していた。東京湾は完全に陸地であり、三浦半島と房総半島とは結合され、津軽海峡も、宗谷海峡も陸続きで、北方大陸と直結していたというのが、約二万年以前までの状況であった。したがってこの時期には日本列島の陸域が最大に拡大され、北方から人類や生物はこの陸橋を通って移動してきた。高い中央部の山岳には山岳氷河が発達をみていたし、カール地形をきざんでいるのがみられた。グリーンタフにはこの時代に多くの火山が噴出し、大量の熔結凝灰岩や軽石流を噴出した。そして日本列島におけるカルデラの形成はこの時代の特徴の一つとみられている。
 ウルム氷河期の後、気候が温暖となって、海水が陸地内奥に進入し、再び活発な海進現象が進行しはじめた。この時代が冲積世であり、この現象を繩文海進と呼んでいるように、この時期の海岸線は、新石器時代の海岸線とみられる。冲積世初頭の海進後、再び海退現象をみるが、それによって陸化した地域は河川の堆積物による冲積低地(海岸平野)であり、ほぼ六千年前頃までには現在の日本列島=ヤポネシアが成立していたものと考えてよいであろう。現在ヤポネシアに残存する活火山は、洪積世末期から冲積世初頭にかけて活動を開始しはじめた火山であるし、休火山はそれ以前に活動をした火山の遺存である。氷河期の寒冷な時期に、大陸から渡来・分布した動植物は、温暖な気候変化によって、海峡の形成で退路をたたれて移動できず、絶滅するか、あるいは中央の山岳地帯に逃れて遺存するかのほかに道はなかった。
 以上のような地質の変遷の過程の中で、武蔵野台地は形成されたのである。