四 アキシマクジラ

55 ~ 58 / 1551ページ
 昭島市域が海であった頃の状態を推測する資料が、昭島市域から発見されている。それは昭和三六(一九六一)年八月二〇日、昭島市大神町地先の成隣小学校附近、八高線鉄橋から東へ三六メートル隔てた多摩川の川底から発見された一群の動物化石骨の発見であった。この地点はすでに二~三〇年前から多摩川砂利の採取のため砂利穴が掘り下げられていたため、川底の第三紀鮮新世の地層が露呈していた場所であった。その日昭島市立玉川小学校教諭田島政人氏は、川底に露出した中位粒子の砂岩の中に、多くの直径二〇センチメートルぐらいの動物化石骨が、点々と一〇メートルの範囲にわたって散在しているのを目認し、八月二九日から、九月三日までの間に発掘調査することになって、その全貌が明らかになった。地元の研究家の協力で行なわれた発掘調査は、その後国立科学博物館の尾崎博理学博士等の専門家の指導鑑定をうけて研究された結果、この動物化石骨は、全長約一六メートルに及ぶ、現生のものとは異る鯨の化石骨であることが判明し、尾崎博士や、鯨類研究所の西脇博士によって、この化石鯨は「アキシマクジラ」と命名され、昭和三八(一九六三)年の日本古生物学会総会において広くわが学界に、その存在が紹介されたのであった。
 化石鯨の骨は非常にもろくくずれ易い状態であったが、国立科学博物館の本多晋技師の指導によって満一カ年を要して昭和三七年(一九六二)八月二三日の夕刻に復元が完成した。復元してみると、アキシマクジラと命名されたこの化石鯨は、頭骨・下顎骨・頸骨・肋骨・脊骨・肩甲骨・腕骨・指骨と、ほぼ全身骨が揃っており、このようにほぼ全身骨が完全な形で発掘されたことは、きわめて稀な例とされる。アキシマクジラの脊椎骨は、腹部の第20・23・24・25・26・27・28・29と、尾部の第30・39・40・41・42・43・47・48が欠けているが、脊椎骨の大きさから化石鯨の全身長は一五~六メートルあったものと推定され、全体として現生クジラ類と比較すると、コクジラに最も近似しているとされる。
 頭骨は右半分がほぼ無傷で残っていたが、形は細長く、眼の位置が後頭部から三分の一の部位にあり、眼球を包む骨の形や、出張り工合、その上部に深い凹みのあることや、後頭部がまるくて短い点で、他の現生クジラ類と全然異っている。頭部に上顎骨がついている角度が、コクジラの場合急角度であるのに、アキシマクジラではゆるやかな角度を示している点も異っている。
 上顎骨は、基部を発掘時に破損し、先端は流石に洗われて、その状況は不明であるが、全体の構造から、非常に長く、先端まで太く堅固であって、コクジラに似ているが、上顎骨のそりがなだらかである点が異っている。
 下顎骨はほとんど原形のままで、非常に長く、中程が上に向ってなだらかにそり、太く、先端にいくにしたがって下縁に向って細くなり、上縁・下縁の近くに関節近くから先端にかけてやわらかい線のくぼみがつづき、口内に向ってそりがなく、全体としてスマートな感じである。これも他のクジラ類と異っている点である。
 頸骨については、第一頸椎が発掘時に簡単にとりはずされたので、第二頸椎以下とは軟骨で結ばれていたと思われるが、第二頸椎から第七頸椎までは一つの群として発掘されたし、椎体面には砂が入りこんでいないようであったので、結合していたかどうかは縦断してみなければわからない。第一頸骨の頭骨がのっていた皿の部分の大きさや、形状を比べてみると、皿の部分が大きく広い角度をもったV字形で、その角度や、皿の形や、くぼみ具合からみて、コクジラやナガスクジラに近似している。
 肋骨については、第一肋骨で比較すると、アキシマクジラはそりが非常に強く、幅が広いこと、そして先端は外側から切ったようにまるみをもっている点で、他の現生クジラ類と完全に異っている。
 肩胛骨はほぼ完形で掘り出されており、全体的にまるみをもち、厚味は薄く、特に後方がまるみをもち、突起が短く、まるくて大きく、それが本体の真横から一平面上に突出していることが大きな特徴である。これもまた現生クジラ類と全く異っている点である。
 腕骨は、その上腕骨の形状で、コクジラやイワシクジラと近似しているが、橈骨・尺骨の形状はコクジラとほとんど変りがない。ただ橈骨の前端部がコクジラは方形であるが、アキシマクジラはやや尖っていること、尺骨の肘関節の突起がアキシマクジラは三角形を呈して、反対側のそりが鋭い点でコクジラと異り、むしろイワシクジラが近似している。
 指骨は、指の本数が問題であるが、アキシマクジラの場合四本であったものか、五本であったものか明瞭でなかった。写真では四本であるが、四本だとハクジラ・ナガスクジラと同じで、五本ならばセミクジラと同じである。
 以上のような出土化石鯨の骨格の点から、アキシマクジラは、現生クジラ類とは異ったものであり、この化石鯨の生棲年代は、関東ローム層の下の砂岩の中に埋まっていたという発掘地点の地層から、第三紀に属する後期鮮新世の頃と推定される。この推定年代は、同じ地点から別に発見された不完全な化石鹿の枝角の研究からも証明される。それはこの化石鹿の枝角は、一新種として、 Elaphrus tamaensis n. sp. と命名され、多摩川床の平山砂層中より出土したものとして、おそらく後期鮮新世 Late Pliocene 頃のものであるとされているからである。
 そうするとこの化石鯨は、昭島市附近一帯が洋々たる太平洋の海底であった頃に生棲していた鯨の遺骨であることが推定されると共に、その頃武蔵野台地も、多摩丘陵も共に一帯の海洋の海底に沈んだままの時代であったことを如実に示す地質学上の貴重な資料である。