七 武蔵野台地の景観

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 武蔵野台地の景観として、まず第一に注目すべきことは、その表面を覆う部厚い関東ローム層によって、地下水の利用が困難であったという自然条件であり、この自然条件が決定的に作用して開拓がきわめて困難であったことが、この台地をして、長い間狭義の「武蔵野」として森林・草原の荒野として放置させていた所以である。したがって武蔵野台地で生活を営もうとする人びとは、常にこの水の制約をうけて、一定の生活圏設定の上での限定をうけ、そこに武蔵野における集落生活に特有の集落景をあたえている。水利の便の悪さは特に台地の西部において著しく、西多摩郡羽村町五の神地区の熊野神社境内にある「まいまいず井戸」のような特色ある井戸が掘られているのも、武蔵野台地の特色ある景観の一つである。武蔵野段丘や立川段丘の末端においてみられる段丘懸崖線下では地下水面が不連続的に低下して、そこでは武蔵野礫層基底部にたまった地下水が湧出し、そこから細い小川が流れ出していて、それにそって古い集落が出来ている。狭山丘陵の辺縁沿いの地域でも、丘陵の地下水が湧出していて、そこもやはり水に乏しい武蔵野台地において、水に恵まれた数少ない地帯として、古くから人びとの生活圏となり古い集落ができ上っていた。砂礫層中の粘土のような不透水層があるところでは、その部分に地下水が局部的にたまって宙水域が生ずる。そうした宙水域では地下水面は浅いので利用に便があるかわりに、水量が豊富でないので、すぐに枯渇するきらいがある。武蔵野台地の東部では深井戸地域が少なくなり、浅井戸地域がひろがるが、豊島区や世田谷区では、地下数は四~五メートルの深さでローム層中に帯水している。ローム層下の山手粘土層が断絶しているところでは、地下水面に急変が生じ、地下水瀑布線がみられ、その落差は二~三メートルないし七~八メートルにも及んでいる所がある。この武蔵野台地東部の地下水瀑布線は、練馬区北町線・大泉線、世田ケ谷区高井戸-淀橋線・千歳-祖師ケ谷線などが算えられる。海抜五〇メートル内外の所では南北に湧水帯が走り、そこが台地をえぐる開析谷の谷頭となっている。谷頭には湧水による池が形成され、この池水を水源とした細流が流れ出て、台地を潤している。井の頭池と神田上水、善福寺池と善福寺川、三宝寺池と石神井川、大泉池と矢川などは、みなこの関係を明示している。武蔵野台地で生活する人びとは、勢いこうした自然景観の制約をうけなければならなかった。特に武蔵野台地での水との関係が人間生活を大きく左右した。西部では前記のような昭島市域の立川段丘・青柳段丘・拝島段丘面においてすら地下水が深くて、深井戸を掘らなければならない状態であったから、この水に関する自然的条件の決定的作用によって台地の開拓がきわめて困難であったことは首肯できよう。
 武蔵野台地-狭義の武蔵野-の始原景観については種々の説がある。古く鳥居龍造博士は、始原時代にあっては武蔵野は一帯の原始林の密林地帯であった。うっそうたる樹木におおわれた武蔵野は、まず焼畑耕作が開始されるに及んで、しだいに無樹地帯に化していったと説かれた。その焼畑耕作の開始期はいつであったか。辻村太郎博士は武蔵野の原始林の開拓は非常に早いとの見解を述べ、繩文石器時代にすでに開拓がはじまったと説かれた。しかし大塚弥之助博士の説では、台地の表面をおおっている赤土の下に、樹幹や樹根などの埋没した例がないので、赤土堆積以前における大森林の存在を否定されているのである。とにかく武蔵野台地の開拓に手をつけはじめた最初の人が、繩文中期の石器時代人-原日本人であったろうことは、考古学的に証明できるが、その開拓は局地的なものであって、武蔵野台地が人間生活空間として活用できるまでに大規模な開拓がはじめられたのは、江戸時代に入ってからという、きわめて後の時代であったとみることは否定すべくもない事実である。
 概して武蔵野台地の集落は、そのはじめ、狭山丘陵や加治丘陵の山麓地帯とか、台地末端の浸蝕谷や、多摩川に面した河岸段丘面上に発達をした。すなわち繩文時代の住居阯の分布がそのことを立証している。これは丘陵の裾や、台地の末端の湧水を利用しようとした人びとの生活の智恵であり、自然発生的な集落であった。台地東端の古東京湾に面した所では、東京港区芝公園の丸山貝塚のように、貝塚遺跡がのこっている。開析谷の谷頭にある池の周辺にも住居阯が分布していて、谷頭の湧泉集落の発達をみせているが、その起源も古いものである。
 多摩川に沿った河岸段丘面にも、古い住居阯が街村的に点在している。多摩川の一支流である野川は、武蔵野段丘面と立川段丘面との境界である比高一〇~一五メートルの段丘懸崖に沿って湧水が出て、それら湧水帯の泉水を集めて南東に流れる小川であるが、その沿岸にも住居跡を見出す。調布市の深大寺は関東最古と称される白鳳仏を有する古寺であるが、それはこの段丘懸崖下の湧水の辺に建立されている。三鷹市大沢・小金井市の小金井・貫井、国分寺市の国分寺本村・恋ケ窪などの集落は、いずれもこの段丘懸崖線に沿って、湧水の辺に立地した古くからの集落である。武蔵国分寺もやはり野川の水源の湧水の辺近くに選地して建立されたもので、懸崖のふもとに七堂伽藍を建て、南に立川段丘面の平坦地を展望する絶好の場所であった。このように武蔵野台地の集落景は、自然の湧水、谷頭の湧水池の附近、多摩川沿岸の河岸段丘末端に発生した自然集落で、武蔵野台地上の広い荒野が開拓されて、人びとがそこに集落を営み、生活しはじめるのは、どうしても江戸時代における玉川上水の開通などの土木事業と共に、新田開発の政策がとられて、新田がつくられ、そこに新田村が形成される段階をまたなければならなかったのである。
 この原則は、そのまま昭島市の場合にもあてはまる。武蔵野台地の西部、立川段丘面や青柳段丘面・拝島段丘面、そして多摩川左岸の冲積面を合わせた地域に立地する昭島市も、まずこうした武蔵野台地のもつ自然的条件による制約をうけつつ、天与の景観条件に順応して、徐々に発展することを余儀なくされてきたのである。
 昭島市域の最上位をなしている立川段丘面には繩文時代以前のものと思われるポイントなどが、まま散見できるので、新石器時代以前にはこの段丘面が生活圏であったことが知られる。そして立川段丘末端の段丘懸崖附近には、繩文初期(早期)の林ノ上遺跡・上川原遺跡などが存在する。繩文前期の遺蹟はこれら段丘面にはみられず、次の繩文中期に比定される遺跡は、青柳段丘面にさがり、勝坂式土器を伴なう西上集落遺跡がみられる。その下の拝島段丘面では繩文中期以降の遺跡があるが、弥生時代から古墳時代のはじめにかけての遺跡は本市域ではなお発見できず、古墳時代後期の集落遺跡としての山ノ神遺跡と、田中町の浄土で古墳時代終末期の古墳が発見された。そして宮沢町の経塚下遺跡も、この拝島段丘面の多摩川に面した地点で発見されたが、それは平安時代の集落遺跡であった。ここでも時代の経過につれて、段丘面を漸次下降して、多摩川の水辺近くへ人びとが集り住み、少しでも多く貴重な水の恩恵をうけようとする生活の悲願がくみとられるのである。
 拝島段丘はその南端において、比高六~七メートルの垂直懸崖を以て多摩川河床の冲積面に接するが、その段丘崖下には豊富な湧水が噴出し、段丘下に立地する阿弥陀寺境内の湧水はきわめて清澄な水であり、それを利用してわさびが栽培されている程であり、寺の東に隣接する諏訪神社境内にも湧水があり、この段丘崖下に湧水帯があって、それに沿って同時期の古い集落が点在したことを物語っている。
 武蔵野台地西部に立地する昭島市域の古来からの住民の-こうした単調な自然景観の中での生活で、その単調さに一抹の変化をあたえてくれるのは、千古に変らぬ多摩川の流れであった。昭島市も隣接する立川市と同じく、多摩川左岸沿いの都市として、そこの住民は古来多摩川からいろいろな影響を、その生活史の上にうけてきたわけであるから、次には特に多摩川について考察する必要がある。

昭和16年頃の畑地風景


多摩川と奥多摩の山なみ


拝島のフジ


おねいの井戸(拝島町)