武蔵野台地-狭義の武蔵野-の始原景観については種々の説がある。古く鳥居龍造博士は、始原時代にあっては武蔵野は一帯の原始林の密林地帯であった。うっそうたる樹木におおわれた武蔵野は、まず焼畑耕作が開始されるに及んで、しだいに無樹地帯に化していったと説かれた。その焼畑耕作の開始期はいつであったか。辻村太郎博士は武蔵野の原始林の開拓は非常に早いとの見解を述べ、繩文石器時代にすでに開拓がはじまったと説かれた。しかし大塚弥之助博士の説では、台地の表面をおおっている赤土の下に、樹幹や樹根などの埋没した例がないので、赤土堆積以前における大森林の存在を否定されているのである。とにかく武蔵野台地の開拓に手をつけはじめた最初の人が、繩文中期の石器時代人-原日本人であったろうことは、考古学的に証明できるが、その開拓は局地的なものであって、武蔵野台地が人間生活空間として活用できるまでに大規模な開拓がはじめられたのは、江戸時代に入ってからという、きわめて後の時代であったとみることは否定すべくもない事実である。
概して武蔵野台地の集落は、そのはじめ、狭山丘陵や加治丘陵の山麓地帯とか、台地末端の浸蝕谷や、多摩川に面した河岸段丘面上に発達をした。すなわち繩文時代の住居阯の分布がそのことを立証している。これは丘陵の裾や、台地の末端の湧水を利用しようとした人びとの生活の智恵であり、自然発生的な集落であった。台地東端の古東京湾に面した所では、東京港区芝公園の丸山貝塚のように、貝塚遺跡がのこっている。開析谷の谷頭にある池の周辺にも住居阯が分布していて、谷頭の湧泉集落の発達をみせているが、その起源も古いものである。
多摩川に沿った河岸段丘面にも、古い住居阯が街村的に点在している。多摩川の一支流である野川は、武蔵野段丘面と立川段丘面との境界である比高一〇~一五メートルの段丘懸崖に沿って湧水が出て、それら湧水帯の泉水を集めて南東に流れる小川であるが、その沿岸にも住居跡を見出す。調布市の深大寺は関東最古と称される白鳳仏を有する古寺であるが、それはこの段丘懸崖下の湧水の辺に建立されている。三鷹市大沢・小金井市の小金井・貫井、国分寺市の国分寺本村・恋ケ窪などの集落は、いずれもこの段丘懸崖線に沿って、湧水の辺に立地した古くからの集落である。武蔵国分寺もやはり野川の水源の湧水の辺近くに選地して建立されたもので、懸崖のふもとに七堂伽藍を建て、南に立川段丘面の平坦地を展望する絶好の場所であった。このように武蔵野台地の集落景は、自然の湧水、谷頭の湧水池の附近、多摩川沿岸の河岸段丘末端に発生した自然集落で、武蔵野台地上の広い荒野が開拓されて、人びとがそこに集落を営み、生活しはじめるのは、どうしても江戸時代における玉川上水の開通などの土木事業と共に、新田開発の政策がとられて、新田がつくられ、そこに新田村が形成される段階をまたなければならなかったのである。
この原則は、そのまま昭島市の場合にもあてはまる。武蔵野台地の西部、立川段丘面や青柳段丘面・拝島段丘面、そして多摩川左岸の冲積面を合わせた地域に立地する昭島市も、まずこうした武蔵野台地のもつ自然的条件による制約をうけつつ、天与の景観条件に順応して、徐々に発展することを余儀なくされてきたのである。
昭島市域の最上位をなしている立川段丘面には繩文時代以前のものと思われるポイントなどが、まま散見できるので、新石器時代以前にはこの段丘面が生活圏であったことが知られる。そして立川段丘末端の段丘懸崖附近には、繩文初期(早期)の林ノ上遺跡・上川原遺跡などが存在する。繩文前期の遺蹟はこれら段丘面にはみられず、次の繩文中期に比定される遺跡は、青柳段丘面にさがり、勝坂式土器を伴なう西上集落遺跡がみられる。その下の拝島段丘面では繩文中期以降の遺跡があるが、弥生時代から古墳時代のはじめにかけての遺跡は本市域ではなお発見できず、古墳時代後期の集落遺跡としての山ノ神遺跡と、田中町の浄土で古墳時代終末期の古墳が発見された。そして宮沢町の経塚下遺跡も、この拝島段丘面の多摩川に面した地点で発見されたが、それは平安時代の集落遺跡であった。ここでも時代の経過につれて、段丘面を漸次下降して、多摩川の水辺近くへ人びとが集り住み、少しでも多く貴重な水の恩恵をうけようとする生活の悲願がくみとられるのである。
拝島段丘はその南端において、比高六~七メートルの垂直懸崖を以て多摩川河床の冲積面に接するが、その段丘崖下には豊富な湧水が噴出し、段丘下に立地する阿弥陀寺境内の湧水はきわめて清澄な水であり、それを利用してわさびが栽培されている程であり、寺の東に隣接する諏訪神社境内にも湧水があり、この段丘崖下に湧水帯があって、それに沿って同時期の古い集落が点在したことを物語っている。
武蔵野台地西部に立地する昭島市域の古来からの住民の-こうした単調な自然景観の中での生活で、その単調さに一抹の変化をあたえてくれるのは、千古に変らぬ多摩川の流れであった。昭島市も隣接する立川市と同じく、多摩川左岸沿いの都市として、そこの住民は古来多摩川からいろいろな影響を、その生活史の上にうけてきたわけであるから、次には特に多摩川について考察する必要がある。
昭和16年頃の畑地風景
多摩川と奥多摩の山なみ
拝島のフジ
おねいの井戸(拝島町)