一 多摩川と沿岸住民の生活

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 多摩川は武蔵野台地と、多摩丘陵とを分ちながら、古の武蔵国の南境を流れる大河である。武蔵野の北を限る荒川と共に、その南を限る武蔵の二大河川として、古来史上に名高い川である。明治三八(一九〇五)年に、日本の鮎と、多摩川の鮎漁(徒鵜漁法)をはじめて世界に紹介した魚類学の権威ヨルダン博士 D.S.Jordan は、その著書の中で、多摩川について、「多摩川とは、宝石の川という意味で、これほど澄んだ水は未だかつて見たことがない。」〝Tamagawa means Jewel River, and no water could be clearer.〟と、多摩川の水の澄んだ美しさを口を極めて賞讃しているほど、大正時代までの多摩川は、水量の豊富な、しかも玲瓏玉の如く澄んで清らかな流れであった。かつての武蔵国庁もこの多摩川の流域に置かれていたこともあって、多摩川の名は早くから都の縉紳家の間にも知られていた。『万葉集』の「東歌」にもすでにその名は詠まれていた。
 多麻河泊爾(たまかはに)。佐良須〓豆久利(さらすてずくり)。佐良佐良爾(さらさらに)。奈仁曽計能児乃(なにそこのこの)。己許太可奈之伎(ここだかなしき)。
奈良時代には多摩川の辺の住民が、手作りの調布を、この美しい川に晒らしていた風景が如実に示されている。今日多摩川の流域に、調布という地名が残っていることは、こうした生活のあとを今に伝えるものである。その豊かな水量と、幅広い洋々たる流路が、武蔵野の水運を荷っていたことを忘れてはならない。昭島市拝島は、上流から流されてくる筏の集散地であったし、荒川につぐ舟運で知られていた多摩川は、昭和のはじめ頃まで府中市是政付近まで、なお水運の便があったことを思えば、そのかみ、この川によって武蔵野の集落の住民達が、文化の交流に、経済の流通に、その水運に依存していたことは想像に難くない。単調な武蔵野の自然景観を破ってそれに一つの活力と、変化とを投じてくれたのは、この多摩川の流れにほかならなかった。
 今日でこそ首都東京の都民の水道の給水源とされたため、その清浄な水は枯れてしまい、水運の便などほとんど忘れ去られてしまったが、飲料水として、あるいは水田灌漑用水として、また荒野の開墾の用水として利用されたのもその起源はきわめて古く、すでに鎌倉時代にはじまっている。『吾妻鏡』によれば、仁治二(一二四一)年の条に、「闢武蔵野。被懸上多磨河水。」とあって、沿岸の曠野の開拓に多摩川の水を利用したことが明らかである。江戸時代になると著しく発展する武蔵野台地の新田開墾は、やはり多摩川の水を利用して行なわれた。それは、江戸町民の飲料水として、多摩川の水を羽村の渠口でせきとめ、台地上の掘割を通して玉川上水として、東流させたのであるが、この上水道の水を、各処で分水して灌漑に便せしめたのであった。その玉川上水は、現在羽村から、昭島市の西北部の拝島町・上川原町の地先を斜めに横切って、立川市砂川町の地域に流れている。
 またこの多摩川は交通・産業・文化の面で、昭島市域の住民に古くから貢献するところ多大であったのみならず、中世戦国の乱世においては、戦略的にも重要な役割を果し、軍事上の意義をももっていた。鎌倉幕府にとって、鎌倉防衛のために、その北方の防衛最前線として、多摩川流域には有力な多数の御家人を配置し、多摩川を自然の防衛抵抗線と考えていた。室町時代にも、東国武士団の諸豪族が、多摩川流域の丘陵や台地の天嶮を利し、多摩川の水利を考えて、居館や城柵を構えるものが多かったし、小田原後北条氏も戦国の乱世に処して、小田原防衛のため、甲信越・上毛・下毛等の諸方面からの敵に対する防禦抵抗線をこの多摩川に定め、その南岸に一族の氏照を配し、昭島市拝島町の対岸、八王子市滝山町の滝山丘陵上の天嶮を利して、大きな山城としての滝山城を構築した。そのため、後北条時代には滝山城攻防戦のくりひろげられる度に、昭島市域は攻撃軍のための兵火の災害を蒙った。例えば永祿一二(一五六九)年甲斐の武田信玄が関東に侵入し、小田原北条氏を攻めた際、信玄は滝山城の氏照が小田原救援に赴くのを牽制する目的で、武田勝頼を大将として滝山城を攻めさせた。勝頼は八月廿四日甲府より碓氷峠を越え、武蔵鉢形・松山・川越を経て府中に出て、更に西進して拝島に至り滝山城を包囲した。一方別動隊は甲斐の岩殿山の城主小山田信茂を大将として、小仏峠を越えて廿里へ出陣して、そこで北条方の横地監物・布施出羽守と戦ったが、計略によって北条方は敗走した。小山田勢は廿里から拝島に至り、勝頼の軍と合し十月三日勝頼が包囲をといて、尾崎山・杉山峠を経て小田原に向うまで、拝島は攻囲軍の本陣となっていた。戦国争乱の世にあっては、いつ平和な農村に兵火の禍がおそってくるか予測は許されなかったが、多摩川をはさんで、眼前に要害の山城を見上げる昭島市域の台地では、つねに兵火の恐怖をいだいて住民は生活をしていたことであろう。
 戦国の争乱が収まって天下泰平の江戸時代になって、多摩川に沿ったこの地域も漸く平和をとりもどした。多摩川は農村の生活にいろいろな潤いを与えた。特に多摩川と秋川との合流点に近い昭島市域の拝島村は、生活の上に、産業の上に、多摩川の恩恵をうけることが大きかった。沿岸低地の水田における用水として、あるいは川漁による食料の補給に、通船による上流地域と、下流地域との人員・物資の輸送、特に鮎漁や、多摩川及び秋川上流の木材を筏に組んで流す筏の集散地として拝島は重要な役割を果してきた。江戸時代では多摩川の鮎は名産で、将軍家への献上品であり、拝島から立川、日野、府中辺までの鮎は特に上質とされていた。将軍も「御遊漁」と称して府中附近の多摩川に鮎漁に来たこともあった。多摩川沿岸の各村々では将軍家への上納の他に、鮎漁のために「鮎運上」という名目の税を支出していた。延慶三(一三一〇)年頃の成立と言われる『夫木集』にのせられている「篝火の影にぞしるき玉川の鮎ふす瀬には光そいつつ」という一首の和歌をのせた、「玉川鮎猟」の図が、『江戸名所図絵』にあるのをみても、江戸時代の多摩川での鮎釣り漁の盛行していたことを知る。多摩川では釣針でオキバリ、ナガシヅリなどの鮎を釣る漁法以外に網漁も行なわれたが、拝島より下府中附近の中流域では鵜飼漁も行なわれていた。当時は勿論天然の遡上鮎を捕えたのであるが、大正時代には工場の汚水などで川口附近の水質が汚染されはじめ、遡上鮎が年々減少してしまい鮎漁も不可能になってきた。そこで大正二(一九一三)年には、魚類学者石川千代松博士が琵琶湖産の稚鮎を、青梅市の大柳河原から放流して成功したので、爾来多摩川では放流鮎の鮎漁が行なわれたが、戦後は工場用水による汚染や、貯水池の建設などで、それも上流域にのみ限られるようになってしまった。このように多摩川は沿岸住民の生活面に多大の恩恵を与えてきた。
 しかし恩恵を与えるだけと言うわけではなく、台風シーズンにおける長雨や、集中豪雨時にはしばしば大洪水を惹起し、多摩川の氾濫原は屡々洪水の大被害をうけ、村人の営々経営した水田は一瞬にして流され、移転を余儀なくされたことも一再ではなかった。多摩川の流路もまた幾度も移動しているし、このような天災をうけることも屡々であった。しかし全体としてみれば、近代に至るまで多摩川は、沿岸の住民に生活を潤おす恩恵を与えていた方がきわめて大きかったのである。