二 多摩川の流程

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 武蔵野台地の住民にとって、多摩川は非常に重要な役割を演じていたし、また武蔵国の多摩川は古来有名な存在であったから、古くから、「玉川」・「玉河」・「多麻川」・「多麻河」・「多磨河」・「多波川」・「田波川」などとさまざまな字をあてて書かれ、訓も「タマガワ」「タバガワ」などと入り乱れているが、今日では「多摩川」と記し、「タマガワ」と訓むのを以て公称としている。それ程著名な大川であるにもかかわらず、多摩川についての認識がきわめて不正確であったことは一驚に値する程である。
 『袖中抄』の著者顕紹が、「武蔵国児玉の郷より流れ出つるを玉川と言ふ。」と記しているのをはじめ、『江戸砂子』は、「玉川は河越のさきより多磨郡へ流れて大河なり。」と堂々と述べているのは全く驚く他はない。川越と多摩川とは全然関係がなく、入間川と多摩川とは全然水脈が異る。多摩川は昔の武蔵野児玉郡などを流れはしない。これは明らかに武蔵野の南と北とを限る二大河川、荒川と多摩川とを混同してしまっているわけである。それではこの顕紹の誤を指摘訂正している『新編武蔵風土記稿』の解説は正しいか?
 玉川。玉川里附。水源信濃国いざるが嶽より湧出し、甲斐国都留郡丹婆山村を過て丹波川と唱ふ。此下多摩郡まてを、たば川と唱ふる如くおもはれたり、村名になつみては、全く里人の横なまりいへる、是を正しとするは非なるへし。それより当国多摩郡小河内郷留浦村に入り、下流同郡中及荏原橘樹両郡界を東流し、総て当国にかかること三十八里余にして海に注す。
と記しているのが『新編武蔵風土記稿』の所説であるが、多摩川の水源を信濃国イザルが嶽としているのは誤であり、多摩川の水源は、山梨県東山梨郡神金村萩原山水干(みずひ)であって、甲斐国山梨郡と武蔵国秩父郡との境をなす雁坂峠の東南であり、信濃国境よりはるかに東の地点であるから、この説も誤っている。
 では多摩川について正確な流程はどう解説すればよいか。
 武蔵野台地の西方を限る関東山地は、地形学的にみると、その周囲を断層でかこまれた地塁山脈である。この山地は秩父古生層・中世層第三系などの岩石で構成されている古い地層であり、多摩川の水源地帯には、花崗岩・閃緑岩・石英斑岩などの深成岩や、石英安山岩脈が迸入している所もみられる。この山地は概して満壮年期から晩壮年期にまで開析された山地で、特に関東地方側で浸蝕がはげしい。東京都の区域内についてみると、雲取山の二〇一八メートルを最高峯とし、西端には一五〇〇メートル以上の高岳が連峯状につらなっている。西に高く、東するにしたがって低くなる。この山地を開析した大河川、それが多摩川であった。
 多摩川は青梅市より上流域では渓谷幅も狭く、両側に数段の狭長な河岸段丘が発達している。上流の花崗岩などよりなる地域では、一〇〇〇~一九〇〇メートルにわたって三つの高位平坦面がみられ、このような山麓階の関係にたつ高位平坦面の発達している地域では、従順山形をなしていて、谷底は幅広く、谷壁斜面は凹形を呈し、厚い風化土層でおおわれている。山地の中流域になると平頂峯がみられ、山形は早壮年期の状態を呈し、谷形は凸形を呈してくる。氷川(奥多摩町)より下流では側方浸蝕による氾濫原、あるいは河岸段丘が顕著な発達をみせる。下流部に発達する多摩川低地は、主としてデルタとしての特色を示している。それを多摩川デルタと呼び、荒川水系、利根川水系の諸河川が形成した複合デルタである東京低地と共に、関東地方東部低地の重要な要素をなす冲積低地である。デルタの上流域は氾濫原に移行するが、両者をどこで境とみるかは不鮮明である。しかし大体のところ下丸子-鹿島田-日吉を結ぶ線を境として、それより下流をデルタ地帯、それより上流を氾濫原地帯とすることができよう。そうすると多摩川デルタは鹿島田を中心として、半経約八キロの円弧状を呈するデルタであると考えられる。北側は武蔵野台地の懸崖で境され、西は下末吉台地に接し、東及び南は東京湾に向って開いている。
 この多摩川の全流域の地形学的特徴を考慮に入れながら、その流程を詳細に述べよう。多摩川は全長一二八キロに及ぶ大河である。上流の水源は大きく二岐の水系に分れる。すなわちその一つは丹波川水系であり、他の一つは日原川水系である。このうち多摩川の本流水系は丹波川水系である。丹波川はその水源を前述の水干に発するとされているが、水干に発する水系は、一瀬川と呼ばれて南流し、他の一つは柳沢峠と黒川の谷に発し、この水系は柳沢川と呼ばれ、落合の東方において黒川、石保戸渓谷の水を集めてくる高橋川と合して、東に流路をとり、吉野谷において本流筋の一瀬川に合流している。一瀬川は大菩薩峠以北の、泉水谷、小室川谷の水を合して丹波山村に至り、この附近から名を改めて、丹波川と呼ばれる。丹波川は更に東流して、小袖川・小菅川を合しながら、氷川に出て、日原川と合流して青梅市に達する。青梅市から流路を南にまげ、東南流して昭島市拝島に至る。拝島に入る手前で、大嶽山塊に源を発する諸渓谷の水をあつめて五日市町を経て東流してくる秋川を合流して、更に東南流し、昭島市の南を貫流し、立川市域に入る。立川市域では日野市と立川市の間を東流し、そこで小仏山中に源を発する浅川及びその支流の水を合わせて、南多摩丘陵の東北麓の断層崖下を東南流して、荏原を経て羽田鼻附近において東京湾に注いでいる。青梅市から下、荏原より上の流域で、多摩川と呼ばれ、荏原より下では六郷川と呼ばれる。いま多摩川の全流程と、その流域毎の呼称の異なりを表記すると前表の如くになる。

 

 このように流域毎に川の呼称が変るのは、多摩川に限ったことではなく、大河川になればなる程、こうした流域毎に異名がつけられるのが、むしろ普通である。相模川でも、上流は桂川、中流で相模川、下流は馬入川と呼ばれるような工合である。
 したがって多摩川という公称の起源は、この川の中流域の呼称によったものであることは明らかである。それではなぜこの川の中流域で多摩川となったのか。上流の丹波川とか、下流の六郷川という名称が公称とされず、中流の名がとられたのか。そしてまた多摩川という名称の語義は何であろうか。多摩川の性格を考える上で、このことはやはり重要である。そこで次には多摩川の名称の由来について一言しておこう。