多摩川は、古くは簡単に玉川とも書いたが、「タマガワ」という名の川は、武蔵国の南部を貫流するこの多摩川のほかにも沢山ある。普通によく知られるのが「ムタマガワ」(六玉川)と一括して呼ばれる六ヶ所の玉川である。それは(一)京都府綴喜郡井手町の井手の玉川、(二)滋賀県栗太郡老上村の野路の玉川・萩の玉川、(三)大阪府三島郡三箇牧村の玉川の里、(四)和歌山県高野山金剛峯寺奥院大師廟畔の高野の玉川、(五)東京都の多摩川、すなわち調布の玉川、(六)宮城県宮城郡母子川の末流、野田の玉川・千鳥の玉川、以上六川が「六タマガワ」に算えられている。穂積頼母が寛政時代に作詞し、国山勾当が作曲した、生田・山田二流派が用いている難曲とされる箏曲「玉川」は、六玉川を四季になぞったものであり、三橋検校が作曲した組歌に「玉川」、別名を「六玉川の曲」というのもあって、玉川の名は一般に知られるようになった。この六玉川の他にも、まだ玉川の名をもつものも多い。
これらの玉川の中で、一番よく知られているのが、この多摩川である。その名はすでに『万葉集』にも見えていて、起源も古きにさかのぼるのである。そして中流域での名称多摩川が全般的な公称となったのも故なしとしない。それはこの川の中流域の多摩郡の府中市附近に武蔵国の国庁が設置されており、そこが武蔵国の中心地帯となったため、都の人びとの間にも自ずから国庁の辺を流れる多摩川の名が伝えられるに至ったので、奈良時代の大和の人びとにも多摩川の名は知られていたのである。多摩川の流域の地だから、そこが河川名に因んで多摩郡と名づけられたものなのか、逆に多摩郡という郡名が先行しており、同郡の彊域を貫流する大川だから多摩川と呼ぶようになり、したがって上流の丹波川が、中流にくると多摩郡に因んで多摩川と改められたものなのか、いずれであろうかという点については、確固とした証拠になる史料がない以上、確実にいずれとも断定はできない。とどのつまりは一つの推測に終るであろうが、蓋然性のきわめて高い推定を状況証拠によって実証的に展開させることは、古代史の研究法としては絶対に必要な方法である。多摩川と丹波川とは必ずしも同一語源から出た転訛であると解しなくてもよいと思われる。そして郡名は川名に因んでつけられたものであるというのが至当である。大化以降の東国における国郡制施行よりも早くから、中流域では多摩川と呼ばれていたと考える方が正しかろう。それを証明するために、多摩川にまつわる個々の名称について、その由来を個別的に考えることが必要であり、それによってまた語源も究明されることになる。
多摩川は最も普通に玉川と書かれるから、美玉を産出する川という意味が「タマガワ」にはあるという考えは、例えば青森県九戸郡野田の玉川の場合には、そこが琥珀の産出地であることによって正解のように思われようが、それはきわめて僅少な事例であって、他の玉川の場合にはあてはまらない。したがってこの説を以て、玉川の語源とすることに賛成できない。およそ全国で主要な玉川は、前記の「ムタマガワ」の他に七川があげられる。それは、(一)静岡県安倍郡の玉川…大井川の支流、(二)静岡県田方郡の玉川(小泉川とも呼ばれる川)、(三)神奈川県中郡の玉川…金目川の支流、(四)茨城県那珂郡の玉川…久慈川の支流(田間川とも書く)、(五)山形県西置賜郡の玉川…荒川の支流、(六)山形県東田川郡の玉川、(七)青森県九戸郡の玉川(野田の玉川)の七川である。これをみて明らかなことは「タマガワ」と呼ばれる川は、京都・大阪・和歌山・滋賀・静岡・神奈川・東京・茨城・山形・宮城・青森の、一都二府八県に及んで分布しているので、近畿以西に乏しく、東国から東北にわたって濃密に分布し、しかもこの名は河川の上流域において用いられているものが殆どであることが注目される。そこで多摩川の場合も、まず上流名から順にあたってみることにしよう。