A 丹波川

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 前述の如く丹波川という名称は、甲斐国東山梨郡丹波山村のうちを流れる所からおこった名称であることは間違いない。丹波川と呼ばれる時には、一瀬川・柳沢川・黒川などの諸流の水を合して一筋の流れとなって、この名称がみられる。そこでこの丹波川という名は、ここでも丹波山村という村名に因んだものという説があるが、そうではなくやはり川名がもとで村名ができたと考える。というのは丹波川の名は、丹波山村より更に下って、青梅市に至るまでの全流程で通用しており、氷川と青梅との中間に古里村があった。その古里の大字に大丹波・小丹波という地名が存在し、山梨県の丹波山村と同名の地名である。したがって「丹波」という名は固有名詞であるよりも、何か共通した性格をもつ地点をさす普通名詞であった所に、地名の由来があると思われる。そして一且命名された後にそれぞれの地点の固有名詞化-地名化したものである。丹波山村にしても、古里の大丹波・小丹波にしても、共に共通した自然地誌的特色が認められる。古里の大丹波・小丹波について言えば、そこから小丹波の西隣りの棚沢にかけて、丹波川の峡流はここにおいていちじるしく狭まり「魚留」と称される如く、一灘を形成し、高さ約四メートル、幅六メートルばかり。巨岩に流水はさえぎられて、わずかに崖壁を突破してほとばしりそそぐといった有様を呈している。谷は深く、鋭いV字状を呈している。この附近は一つの峠であり、青梅より氷川へ抜ける、これまた丹波川の一難所である。丹波山村は、小河内の西、武蔵国と甲斐国との国境近くであって、ここで丹波川は再び峡谷を狭めて一つの峠をなし、それを越えると、丹波山村の谷地に出る。このように「丹波」といわれる地名のつけられている場所は峠と関連性の強い点が共通している。ところが古朝鮮語では峠のことを、「タバ」と言う。この語は更にウラル・アルタイ語族の大陸諸方言においても、ほとんど共通語として現われる。すなわち満州語(死語)では「タバカ」、蒙古語では「ダバ」・「ダバカ」となる。峠という語はアルタイ語族間では皆共通語として、同一語源の語が流通している。それ故日本語の丹波は、原日本語の段階でも峠を意味する古語であったと思われる。丹波・丹婆・田場・多婆・多波・田波等と書かれる「タンバ」・「タバ」は、古朝鮮語の「タバ」と同一の言語にほかならない。かの丹波国の「タンバ」も、山陰から山城・大和方面へ通う古道の、峠道にそった国であるから峠の国という意味で国名となったわけである。丹波山村も古里の大丹波・小丹波も共に峠道にそった村里であったからこの地名が用いられて不都合ではなかった。だからこれらはすべて古い日鮮共通語、更に原アルタイ語大陸諸方言に共通する峠を意味するタバ・タバカ・タンバという語に語源を求めようと思うのである。そうなると丹波川という名の由来は、丹波山峠を越えて大菩薩をぬけていくこの甲武の古街道に沿って流れる川を、「峠の川」すなわち「タバガワ」と呼んだものだと思う。蓋し武州青梅から氷川に出て、一方では日原川の谷に沿い、天目山を越えて甲州に入る甲武の古い連絡路である日原路、いま一つは丹波川の谷を通って、氷川から西して小河内を経て丹波山に至り、更に大菩薩峠を越えて、甲州より信州へと抜けていく丹波山路、この二つの古道は、小仏峠を越える小仏路に対して、古代における甲武の交通路の表街道と裏街道と目すべき要路であった。そのことは多摩川の沿岸に沿って早くも繩文時代から原日本人の往還があり、多摩川流域の河岸段丘上に、下流から上流に連らなり数多くの繩文時代の住居阯群が街村的配列を示すかのように、河成谷地の奥深くまで散在しているのをみても、またそれらの住居阯より、多数の信州和田峠の黒曜石の原石や、黒曜石製石器製作阯が石器類と共に発見されることから、充分首肯できるのである。
 そこで「峠の川」という意味で名附けられた「タバガワ」の名称が、やがてその渓谷沿いに移動しながら生活を営んだ人びとによって、上流から中流へと移され、多摩川の語源をなしたのであろうという見解も成り立つわけである。有声両唇音の子音bが、同じ有声両唇音の子音mに転訛することは、子音の音韻相通の原理から不都合ではないので taba-tama の転訛は肯定できる。けれども、丹波川から多摩川に転じたとすることも可能ではあるが、また多摩川の「タマ」の語を、峠の意味である「タバ」としない解釈も成立つことも注意しなければならない。