多摩川の支流秋川は、甲武国境の大嶽山塊に発する渓流の水を合して東流すること二十キロ、五日市盆地を灌漑しつつ、高月と小川との間で多摩川に合流するが、この渓谷の奥に前述の檜原村があって、この川もまた神聖な川と目されていたことが想定される。秋川は古くは阿伎留川と呼ばれ、それが転じて秋川となったものと思われる。では原音阿伎留とはどういう意味の語か。五日市町の秋川に面した式内社の古社に阿伎留神社がある如く、古くはこの附近一帯は阿伎留郷と称されていたのである。この「アキル」の「アキ」は、『日本書紀』の応神天皇十三年の条に見える、「伊装阿芸(いざあぎ)」という語の「アギ」と同語である。同じことを述べた『古事記』の「応神天皇記」の条に、明の宮の条の歌謡では、「伊邪古抒母(いざこども)」と歌っているので、「アギ」は「児等(こども)」の意味である。「アギトフ」という古語は、「阿芸登比(あぎとひ)」・「得言(あぎとう)」などと書かれているが、それは「小児の初めて発する語」の意味である。この「アギ」も「アキ」も同語であると、「阿伎留」の「阿伎」も小児の義をもつ。魚が水面に口を出してアップアップして呼吸することをも「アギトフ」ということは、『古事記』の「神武天皇記」の条に、「頃之(しばらくして)。魚皆浮出(いをみなうきいでて)。随水〓〓(みずのまにまにあぎとふ)。」といっているので明らかであるが、これは魚のアップアップするさまが、幼児の初語を発する時の口つきの相貌に似ているので、そういうようになったものであろう。「アキル」の「アキ」が小児の義であるとすれば、後の「ル」はどういう意味であろうか。これは、布留・石村(磐余)(いわれ(いわれ))・隠(名張)(なばる(なばり))・牟礼(むれ)・室(むろ)などの地名に見える、ムレ・ムロ・フレ・フル・ルと同じ語の「ル」である。これらは皆村とか、郡とかの意味である。すなわち阿伎留とは、小児の郡とか村とかいう意味になる。朝鮮語で小児のことを aki, 蒙古語では akǒ と言い、また村のことを朝鮮語では pǒr, kopǒr と言う。これらの語は、「沙伐」 sa-pǒr, 「古良夫里」 kora-puri, 「比自火」 pi-chǎ-pur と記され、『日本書紀』には、「比自〓(ひしほ)」(「神功紀」四十九年の条)・「背伐(はいほつ)」(「継体紀」二十三年の条)・「阿夫羅(あぶら)」(「継体紀」二十四年の条)などと見える朝鮮の地名は、みなこの pǒr に関係のある地名である。そうすると「阿伎留」という地名は、「小児の村」という古朝鮮語に系統づけられる地名であることになる。ではなぜここが「小児の村」という名で呼ばれるようになったのか。それには相応の理由があった。阿伎留神社の祭神は、大物主神・味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)・天夷鳥命(あめのひなとりのみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)の四柱の神であるが、この社の境内には、若雷柱社・伊多弓神社を祭っていることからも、出雲系の神社であり、その主祭神は古くは大国主命の御子神であった味耜高彦根神であったと思われる。そうすればこの神社は、確かに御子神の社であり、御子神の鎮ります神聖な村という意味で阿伎留と称され、その社前の聖なる川を阿伎留川と名づけたのである。そしてその川上に、更に前述した如く、「霊原」の意味をもつ檜原村が存在する。そしてそこには大嶽神社が鎮座している。この社は旧郷社で、大国主命と少名彦命を祭神としているから、同じく出雲系の神社であり、阿伎留神社の祭神の親神である。すなわち秋川=阿伎留川は龍神系の父子の神々の神霊の憑り来る神聖な川であったわけである。この川の上流には、親神である龍神大国主命の神霊が、聖川を遡って御魂を鎮められた神聖な霊地「霊原(ひのはら)」の村があり、その下には御子神の神霊が鎮まる聖地、「御子神の村」すなわち阿伎留郷となった。そしてこの聖川は御子神の神霊の憑り来る川として、阿伎留川-秋川と呼ばれるようになった。そうすれば多摩川の支流秋川の場合も、日原川の場合も、全く同じ信仰習俗に起因する命名とみられ、両者共同工異曲の命名であるわけである。