多摩川の下流を石瀬川、六郷川と呼んでいることは前述の通りである。石瀬川という名はすでに平安時代に存在する。それは『類聚三代格』の承和二(八三五)年の太政官符で、浮橋・布施屋を建て、渡船を配置すべきことを命じた格があるが、その中に、「武蔵国石瀬河三艘。元一艘。今加二艘。」と見えるので、この石瀬河がすなわち多摩川の下流であると推定されているのである。そこにはすでに渡船場として渡船が一艘常備されていたのを、承和二年に、三艘を常備して、交通の便を計ろうとした格である。また同じ川を六郷川と呼ぶのは近世のことであろうと思う。もっとも『大日本地名辞書』の吉田東伍博士は、多摩川下流の六郷川あたりより下を呼ぶ名で、六郷というのは、六郷八幡宮という社が、八幡塚の東側にあり、この社は鶴岡八幡宮の別宮と言われる。この八幡宮へ、その六供斎料として寄進された郷村を六供斎郷と呼んだが、その六供斎郷の中間が落ちて六郷となり、その流域で川名を六郷川としたと説かれている。しかし六郷は、八幡塚・高畑・古川・町屋・道塚・雑色の六村が、古は一村であったので、六郷と呼ぶようになったというのが、『新編武蔵風土記稿』の説である。この説の方が正しい。これらの下流の川名は、いずれも多摩川という名よりもずっと新しい時代の命名であるから、多摩川の語源的考察には直接関係する所がないので、これ以上の詮策はここでは省略することとし、直接中流域における多摩川の命名についてみることにしたい。