上流を丹波川と称した多摩川が、中流に入るとなぜ多摩川とその呼称が変るのか、そしてその語義は何であるか。taba から tama へという子音転化は、音韻法則的に不可はないとして、元来「峠の川」という意味の丹波川で統一されていたとすると、上流では今日でも丹波川という名が、そのまま使われているのに、なぜ中流域では途中からそれを多摩川に改め、そして今日ではこの川の公称として、上流や下流の名称を用いず、この中流での名をとったのか。この点を詳しく考えなければなるまい。
すでに『万葉集』では、「東歌」の中に「多麻河」という書き方が示されているので、万葉時代の東国の人びとの間では、この川の名を「多麻河」という文字で表現し、その音が「タマガワ」という音で発音されていたことを示し、「タバガワ」という音を示していないのであるから、東歌を詠んだ、当時の東国の知識人は、「タマガワ」と一般に称していたことが推定される。そしてこの「東歌」は、当時の多摩郡の内を流れる多摩川中流域を詠んでいることは、歌意の解釈の上からも明らかである。「東歌」の相聞歌(恋歌)の中で、武蔵国の一〇首の中、第一首目に掲げられているこの歌は、「多摩河に晒す布ではないが、いくら思いかえしかえししてみても、どうしてこの娘(こ)が、これほどまでにひどく可愛いいのであろう」という意味の歌であるから、直接多摩川について詠んだ歌というのではないが、この晒布は手作りの木綿布であって、おそらく武蔵国の調として差出すべき布であろうから、多摩郡のこの川の流域では、盛んに調の手作りの木綿布を織り、それを清らかな多麻河の流水に晒していたという日常生活の景観を如実に示す歌としても意味がある。調布という地名は、今日調布市として普く知られているが、多摩川で晒した調布は、なにも現在の調布市域の多摩川だけで晒し、調製され、調として貢納されたものではない。それよりも上流にも現在でも調布という地名があり、上流から中流そして下流の全流域のどこでも、手作りの木綿布を多麻河で晒していたという生活景は通有のものとして、流域のどこでもみられた光景であった。
万葉集で示された「多麻河」の「麻」という字にバ音をあてて訓ますことは不可能である。けれども、源順が承平時代(九三〇年代)に著した『和名類聚抄』には、「多摩郡」と記し、それを訓じて「太婆」と註し、「タバ」と訓ましている。そうすると「多麻」と書いても、「多摩」と書いても、音は「タバ」であり、なお丹波・丹波川の原音のままであったことになるのである。すなわち平安時代においては、「多摩郡」と書いて「タバノコホリ」と訓んでいたことになり、「タマノコホリ」ではなかった。したがって多摩川も、また『万葉集』の「多麻河」もなお当時の発音は「タマガワ」ではなく、「タバガワ」であったということになる。これは当時の都の学者の間では、多摩川は「タバガワ」と呼ぶのが古音であり、したがって多摩郡も古くは「タバノコホリ」であったという考証がなされていたということが推定される。けれども一般にはすでに万葉時代の東国人の間では、「タバノコホリ」・「タバガワ」とは言わず、「タマノコホリ」・「タマガワ」と発音していたことは、「多麻河」という万葉仮名によって明白である。
武蔵国の国府(現在の府中市)の側には武蔵国の総社としての大国魂神社が鎮座している。この社は旧官幣小社で一名、六所宮と称されるように、国司の守が管内神祇の総斎を執行するために、国内鎮座の多数の神々をこの社に集めて配祀したのである。この総社は今日大国魂神を主祭神として、他に八座の大神達を配祀している。国守がこの社で武蔵一国の総斎を執行するに際し、厳粛な潔斎を行なったが、潔斎とはいわゆるミソギハライである。ミソギをするためには聖水を必要とする。多摩川が神霊の憑り来る聖川であるという考え方は、すでに支流日原川や秋川において説明した通りであり、これらの支流の聖水を合わせて流れる多摩川の中流、国府所在地の辺を流れる多摩川をもって、武蔵国における神聖な川と考えたことは当然のことであろう。国守以下の官人が総斎にあたってミソギをするのに、この多摩川の清流の聖水を用いたとしても差支えはない。だからこの川は、水神(竜神)の霊が憑り来る川、すなわち「霊川(ヒノカハ)」であり、氷川であり、日原川であるのと同義の川として、霊を和訓でタマといい「タマガワ」と訓んだ。それで国府の附近を流れる川を、「魂(タマ)の川」という義で多摩川と呼んだものだと思う。森田康之助博士は、「タマ風-タマ川という関連から、タマ川は国府の役人がミソギをする川であるタマ川の水でミソギをして、その川の神霊のもつ霊威を身につける行為であり、その霊威のタツ(現われる)川という意味が、多摩川の辺の立川という地名となるのであろう。」と説かれている。
こう考えると、上流にみる丹波川という名称は、古朝鮮語系の峠を「タバ」と呼んだ、帰化系氏族の人びとによる命名から一般化してきた名称であり、中流で多摩川というのは、神の御魂の憑り来る川という意味の「タマのカワ」の義で、霊魂のことを霊(ヒ)というのに対して、魂という方をとって用いた、和名による命名であり、中流域にこの名がおこるのは、やはり武蔵国が府中の地におかれるようになったためで、そこを流れる聖川をタマガワと国庁の役人たちがミソギする川に命名したのであろう。そしてそれが武蔵国の中心部において普及し、更に中央と地方との役人の往還により、その名が都の人びとの間にも波及したので、早くから、上流地方に遺存した古い丹波川という名称や、下流の石瀬川の名称よりも、一般的にはこの中流域の名としての「多麻河」というような表現をとって呼ばれる名称が知れ渡るようになったものと思われる。郡名はこの川の流域の郡であるから、この川名に因んで用いられたものだと考える。
以上の考察からすると、多摩川・多摩郡の語源は、「タマ」という原日本語に求められ、その意味は霊魂・御魂・神霊であって、ヒ(霊)と同義語であり、武蔵国の南部を貫流するこの大川が、水神(竜神-出雲系信仰)の神霊が憑りくる神聖な川と考えられていたので、やがて律令制が実施され、武蔵国府が多摩川中流域の水辺、現在の府中市内に定められた時、国司等のミソギする川として、「タマガワ」の名が固定するに至り、それが国司の往還・地方制度の整備によって、中央にも多摩郡・多摩川として知れわたることになったものと解するのである。この川の中流域、武蔵野台地の南端川沿いの地に住みついた、古い時代からの代々の開拓者達が、彼等の信奉した出雲系の国津神の神霊が、この聖なる流路にそって憑りきますと信じ、常にこの川を聖なる川として崇め、親しんでいた生活の中から生れ出た川名であり、それが国府の設定にともなって中央にまで普及するようになったというのが、この川名の語源についての結論である。