四 多摩川と昭島市

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 多摩川の水は、きわめて古くから、武蔵野台地の南端に沿って生活する開拓者たちの生活に対して、必要欠くべからざる存在であった。昭島市域には繩文時代の早期から、多摩川に沿った段丘に住みついた人びとがあり、彼等の生活は、つねに多摩川の水辺近くの安全な地点に生活の場を選定して、その多摩川の恩恵をうけようとしていた跡は、今日の考古学的遺蹟の発掘によって歴然としている。その態度は末長く継承され、歴史時代に及んでいる。武蔵野台地の南部からの開拓は、まことに多摩川の聖水の恩恵をうけて生活した、移住者の手によって試みられた。昭島市の今日の発展をみるまでに、その基礎は、こうした遠い遠い時代からの、名も知られないわれわれの遠祖である幾多の開拓者達の手によって試みられ、積み重ねられた、営々たる努力結晶にほかならない。昭島市の歴史は、その時にはじまるのである。人びとの生活は、その足下を流れるこの神聖な清流、多摩川の水と切り離すことのできない因縁に結びつけられて始まったのである。或時は住民の紅塵にまみれた単調な生活に、限りなき変化と美しさを与え、その生活の情調を豊かにしてくれたであろう。しかし或時は長雨、豪雨によって静かな流れは忽ち激流岸を破る暴威をほしいままにして、人びとの生活を脅かしたこともあったろう。人びとはそういう時には、それは聖なる川の神霊の怒りとも感じ、神霊を慰め謝罪し、手段を尽してひたすらその鎮静を祈念したであろう。そうした体験を重ね、人びとは自然に逆わずに、川との協同生活をする安全な方途を考え出して、生活を安全に守る道を発見した。手作りの木綿布を川に晒し、調布を貢納し、川漁をして生活資源の豊かさに恵まれ、水運を利して筏を流し、木材を集散し、海岸と山岳地帯とを結びつける交通路の便を占め、諸々の物資や文物の交流によって流域の人びとの生活や文化の水準を発達させた。多摩川の鮎はかつては世界的に有名になった程、美味で漁穫量も豊富で、内陸漁業も盛んであった。江戸時代を通じて拝島の村が多摩川による筏の基地となり、木材の集散地となり、鮎漁の中心地となり、上納鮎の貢納地ともなって発展していたのも、すべて多摩川の恩恵に他ならなかった。しかしかつては昭島市域の住民にとって忘れることのできない存在であったこの多摩川も、近代になると、近代文明と、大東京の発達につれて、東京市民の飲料水の供給源とされて、ダムの建設がはじまり、上流に小河内ダムが建設され、人造湖としての奥多摩湖が完成されたりして、古来の水流が激変してきたこと、航空機の発展によって台地上に航空基地が設立されるに及んで、航空機関係工場の濫立などによる航空機公害が多摩川にも及び、鵜飼まで行なわれていた鮎は激減し、ガソリン臭くなった川水の汚染で川漁は不可能になり、更に戦後のセメント工業の急速な発展は、河床に砂利穴の濫掘を招き川原はいたる所大きな穴があいて、人的公害が現われはじめ、それが自然の被害を一層大きくする結果をまねくことになっている。いまやみる影もないまでに荒廃した多摩川は、昭島市民の生活とは無縁な存在となって忘れられかけようとしている。しかし過去の歴史をふり返ってみる時、多摩川は住民に対して、昭島市の歴史に有形無形の影響を与えつづけてきたことを充分認識しなければならない。
 多摩川の流れは無言の裡に、昭島市の栄枯盛衰を、その時々の流に如実に映しつつ、流れ流れて尽きることを知らない。その長い流れの中にわれわれは昭島市の歴史をくみとらなければならない。昭島市の足下を流れる多摩川の清流を望む段丘崖上にたたずめば、真紅に燃える天空をバックに、多摩川を隔てた多摩丘陵の彼方にくっきりとシルエットに浮ぶ秀峰富士の雄姿は、いまでも千古変らぬ光景を呈している。それにつけても多摩川の今日の荒廃に瀕した姿は、われわれの心をいたく痛めるものがある。静かに多摩川の歴史のあとを偲びつつ、落日に対してなお流れてやまぬ川面を望み見る時、誰しも「ヒヤウエル! タマガワ」と叫ばずにはいられない衝動にかられることであろう。