福島村領主内藤源左衛門正頼(正久)の墓(広福寺)
歴史的にみて、昭島市の市域を一口で特色づける表現を求めるならば、地誌的環境の上では武蔵野台地上の集落という特質で示されたのと対比的に、それは武蔵野と古くから呼び慣らされてきた地域の内で、その武蔵野の全域が経てきた長い歴史のあゆみと共に変遷し、その歴史的な特色を共有していると思われる点であろう。昭島市の歴史は、また武蔵野の歴史の一翼を荷うものであったと言える。ではその武蔵野とはどういう地域なのかをまず明確にしなければならない。
一般に武蔵野と呼んで親しまれている地域は、必ずしも一定した概念によって統一された地域呼称ではない。今日でもその地域の範囲については、広狭多様な解釈がある。左衛門督通光が、「武蔵野や 行けども秋のはてぞなき いかなる風の末に吹くらむ」と詠んだのは、ただその広い荒野という連想から詠んだものであろうが、その概念は漠然としたものである。『太平記』には武蔵野について、「四方八百里に余る」と説明されているが、それも明確に武蔵野の実態を知り尽していないことを露呈している。そこでまず武蔵野とは一体どこからどこまでを指したものなのか。まず広義の解釈では、林羅山が、「稲毛・葛西・越谷・岩筑・河越・鴻巣・忍など皆武蔵野の内」であると述べている説がある。これは多摩川流域から利根川流域までを含めた広域を武蔵野とするという解釈を示したもので、東京都と埼玉県との平原・台地の全域を一括して呼んでいることになる。また『名所方角抄』は、「武蔵野の始まる所は、鎌倉より五六里の所からもう武蔵野で、国中に山なし。」と記しているから更に広域をさすことになり、神奈川県までをも含むことになる。すなわち武蔵野とは、古い武蔵国の内、山地以外の地は全部武蔵野であるという解釈を示したことになる。また、道興准后が、中仙道岡部宿の北、上野国との国境に近いあたりの原野から、川越あたりの原野は勿論のこと、これらを総じて武蔵野と言うと説いているのも、堯恵法印が、岡部宿の辺から、足立郡の箕田に至る原野も武蔵野であるし、東京の上野忍岡辺を以て武蔵野の東境とするというのも、また『伊香保紀行』の中に、江戸北郊の原野は勿論、中仙道の浦和から、桶川・箕田に至る原野、これすべて武蔵野であると説かれているのも、皆この類に属する広義の説である。
これら広義に解する説に対して、武蔵野をより狭義に限定して解する説も古くからある。『北条五代記』に、「三木といへる原は武蔵野の北のはてにて、河越の城にはわずかに五十余町を隔つ」と記してある。これは、三木が今日の川越市西南の地にあたるから、武蔵野の北限を川越附近と考えていたことを示す説である。『河越記』もこの説を述べている。文化年間(第一九世紀初頭)に出版された、『遊嚢謄記』に、「武蔵野は相模の境、都筑郡より、上野の境賀美郡へつづき、延袤二三十里、高平曠遠の総名と知べし。されど別て武蔵野と称するは、多摩入間両郡に跨ぎたる府中、川越の間を限るに似たり。」と記されているのは、最もよく限定的に狭義の武蔵野説を解説した文章である。『武蔵野地名考』の田沢義章は、「西は秩父郡、東は海、北は河越、南は向ケ岡、都筑の辺にいたる。」と説明し、『江戸名所図会』に、「南は多摩川、北は荒川、東は隅田川、西は大嶽秩父根を限りとし」と記しているのは、皆この狭義説をとった解説であった。このことは江戸時代になると、地誌的調査も行届いてきて、大体武蔵野の解訳が狭義の説に固定化してきたことを示している。江戸時代に編纂された地誌類は大体この説を継承している。斎藤鶴磯の『武蔵野話』、石上宣続の『卯花園漫録』などみな同説をのべている。
すなわち武蔵野は、江戸時代の人びとの間では、武蔵国の内の、荏原・豊島・多摩・入間・北足立の五郡、特に多摩・入間二郡の原野を中心として広がる草原地帯を占めている、「十里無人の荒野」を指していうような慣わしであったと言ってよいようである。私は武蔵野という場合、前記地誌的記述の章でのべたように、地誌学的には武蔵野台地と言われている地域を限定的に武蔵野と言うとすると、丁度、歴史的な武蔵野の解釈の中では、狭義の説によって限定するのがよいと思う。したがって、武蔵野とは、多摩・入間二郡の地域にまたがる台地上の平坦な草原・森林を指すとして、狭義説の中でも、最も限定的な狭義説をもって解釈しておくのが正しいと思う。すなわち武蔵野は東京都内の西郊地域全体を中心とする広い地域であるから、その西辺に立地する昭島市も当然この武蔵野の内に含まれることになる。この広い地域を占める武蔵野も、いつもただ「高平曠遠」の荒野のまま、長い歴史を通して放置されたままであったのではないし、「十里無人の荒野」と言って、人びとの生活し得ない不毛の地であったわけではない。その長い歴史を通して武蔵野の開拓は、この空閑地を、われわれの祖先たちの永い努力がつみかさねられて、徐々に人びとの生活圏の中に組み入れてきた。その開拓の歴史が、そのまま武蔵野の歴史なのである。この武蔵野の一隅に人びとが生活を開始した時以来、昭島市域にも人びとが早くも住みつき、武蔵野に生活を求めた人びとの歩んだ途とほぼ同じような途をあゆみながら昭島市の今日の歴史的な発展をとげる基礎が築かれてきたのである。武蔵野の歴史はこれを一口に尽すならば、武蔵野開拓史であるといえよう。そうすればそれと同じ方向をとる昭島市の歴史も、やはり武蔵野開拓史の一翼を構成するところの開拓史とみるのが、その本質であるとすることができよう。そういう所に焦点を合わせて昭島市の歴史のなり立ちを考えることが大切であろう。