二 武蔵・武蔵野の語義

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 武蔵野という語は、武蔵の原野という意味であることは言うまでもない。武蔵というのは地名であるが、武蔵と呼ばれる地域はどこを指すのかというと、この地名は地点名ではなく、初めから地域名として出現したもののようである。その地域とは、一番明確なのは、武蔵国と呼ばれる地域をさすということである。武蔵国という地域は、律令制が施行された大化二(六四六)年以降において、地方行政区画として定められた地方行政上の一国の範囲を意味する。そしてその国として定められた単元地域には、同時にその地域名が決定されたというので、武蔵国という国名が定められたのは、大化二年八月以降のことになる。それではこの行政区画が定められた時点で、その国名として初めて武蔵という国名が、新しく撰定されて名附けられたものであるのか、それともその以前から、武蔵という小地域名、または地点名として、武蔵と呼ばれた地域が、新たに国が定められるよりも以前から、その国内に存在していたので、国名としてそれが地域を拡大して襲用されたものなのか、そのいずれかを決定するに足りる確証は得られないのである。けれども、『国造本紀』によると、武蔵国の地域の内に、旡邪志・胸刺・知々夫という三国造が分立していたと見える。国造は一国一国造制がとられていたのかどうかにも問題があるが、多くの場合一国一国造制がとられていたという想定が可能である例-たとえば出雲国には出雲国造のみが存在する-が多いので、もしその原則を適用すれば、武蔵国が設定される以前には、武蔵国の領域内には、旡邪志・胸刺・知々夫という小さな三国が、独立的に分立しており、その小国にそれぞれの一国造が存在していたとする解釈が可能になる。そして大化改新の時の律令制施行によって、新しく地方行政区画が統一的に断行された時に、この三国が一国に統合されて、より大きな武蔵国という一国が成立したと考えてよい筈である。そこで大化以前のこの三国造のうち、知々夫国造というのは、後の秩父地方をさすから、秩父地方を一括した山地帯を占めていたのが知々夫国であり、その支配権をもっていたのが知々夫国造だということになろう。そうなると、武蔵国の領域内より、この西部山地帯に存在した秩父国の領域をのぞいた地域に残る小領域を占める二国があり、それぞれにまた一人の国造がいたということになろう。その二つの国の国造は旡邪志と胸剌と呼ばれている。この国造名は、前者を「ムザシ」、後者を「ムナサシ」と訓んで区別するが、両者は同一語源に発する地名で、後の武蔵と同語とみてよさそうであるから、大きく分けると武蔵国は、古くは秩父と武蔵の二つの地域に分れていたのであろうと思われる。ところが後になってこの一つの地域が分れて旡邪志と胸剌との二国に分裂し、そして最後にまたこの二国が、知々夫国をも統合して一国になったという考え方が成り立つ。そうすれば、古く旡邪志国造や、胸剌国造が領有していた地域は、秩父に対して古くは合して一つの地域として、武蔵と呼ばれていたのが、後に二つのムサシに分れるのはなぜか、そしてそれはどういう事情によるものであったのか。
 秩父に対する武蔵という地域は、本来一つの地域単元であったものが、後になって二つに分れた理由を私は武蔵国造の動静によるものと考える。たまたま国造が二派に分立して対峙したことによるもので、国造が武蔵を南北に二分した時に、それぞれの領有する地域を区別して、旡邪志と胸刺とに文字を分けて、識別し易いようにした書式をとるようになったものであるから、いずれも「ムザシ」・「ムナサシ」は「ムサシ」と同義語から分れたものであると思う。すなわちその関係を図示すると前頁のようになる。

 

 そこで武蔵・旡邪志・胸剌などと記される原語ムサシという地名の意義は何か。これについては諸説があって、にわかに定め難いようであるが、その中の主要なものを紹介する。