C 旡邪下国説

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 今日の相模武蔵とは、もと一つであって、それを「旡邪(ムザ)国」と呼んでいた。後にそれが「旡邪上国(ムザカミノクニ)」・「旡邪下国(ムザシモノクニ)」の二つに分れたので、それから相模・武蔵という国名が生じた。すなわち「ムザカミ」の語頭の音「ム」が脱落して「ザカミ」となり、それが「サガミ」と転訛して「相模」と書くようになった。一方旡邪下国の場合は、「ムザシモ」の語尾の音「モ」が脱落し「ムザシ」となり、「ムサシ」と転訛したのであるという説である。これは賀茂真淵の説ではあるが、それなら両者のもとの語「旡邪」とはどういう意味なのか、その説明がない。相模を上、武蔵を下とするのは、東海道によって、都に近い相模を上国とし、遠い武蔵を下国と判断してのことであろうが、古くは武蔵国と都の連絡路は東海道による東西線ではなく、東山道による南北線であって、そうすれば武蔵の方が都に近くなるし、また海岸沿いの遠江や、駿河・伊豆や相模、そして安房や下総・上総・常陸への通路と、上野・下野の毛野国と武蔵国への通路とは系統を異にする路線であったと考えられるから、「旡邪」の意味が不明であるのと共に、この上国・下国に区分する考え方にはにわかに賛同できないものがある。