武蔵の語源を朝鮮語で説く別な見解が、中島利一郎によって示されている。朝鮮語の「マル」は、日本語では「ムネ」となり、「ム」となる。「マル」は「大きい」という意味の語である。「サシ」は朝鮮語では郡の意味であるから、「ムサシ」は「ム-サシ」で、帰化した朝鮮人のために郡を設置したので、朝鮮語でそこを大郡-「マルサシ」と呼んだのが訛って「ムネサシ」--「ムサシ」となり、それが国名になったというのが中島説である。しかし朝鮮からの帰化人を武蔵国に分置し、そこに新羅郡や、高麗郡を設置したのは律令制実施後のことであり、武蔵国名はそれ以前からあったので、時代的にこの説は無理である。
地名をも含めて日本語の語源を探究することはきわめて困難であるが、たとえ定説はきめられなくても、地名を正しく理解できれば、それによって歴史の研究が大いに進展することは疑いがない。ただ確実な証拠が得られないと、単なる臆測に終ってしまい、いわゆる民間語源論や、地名説話的解釈に堕する危険性を含むことになるから、その決定には充分な傍証を必要とするのである。私はそこで武蔵の語源については、「ムサシ」を従来の多くの説がそうであったように、「ムサ-シ」と分解するのではなく、「ム-サシ」と解し、「ム」は「ムナサシ」の「ムナ」の約まったものとする(武蔵という漢字が一般化する以前の用字は〓剌と書するのが普通であったようである)。そして「ムナ-サシ」の語源は、「ムナ」が「ムレ」の転訛で、「ムレ」は、「古沙山」を「コサノムレ」、「辟支山」を「ヘキノムレ」と訓んでいるように、山の義である。「サシ」は城の義で、「ムナサシ」は「ムレサシ」で、すなわち山城の義となる。「帯山城」を「シトロムレサシ」と訓んでいる通り、武蔵の語源は古朝鮮語に共通する「ムレサシ」で、山城の義であったとする。武蔵はすなわち東国-「アヅマノクニ」の中心にある一大山城とみるところから名附けられたものであろう。また後節で詳しくふれる所であるが、倭政権が第五世紀の中葉以降、東国へ進出し、まず相模国をその勢力下に収めて、更にその北方武蔵国の方に進出を企てたが、やがて武蔵国の南部がその直轄領に編入された時に、大和から来た遠征軍の大和人は、多摩丘陵を越え、まず多摩川の辺に出て、その大川をへだてて、対岸に連綿と連らなる武蔵野台地をのぞんだであろう時に、彼等はそこが自然の要害の地として一大山城と目にうかんだことであろう。それが「ムレサシ」-「ムナサシ」と呼ばしめた所以であり、そして直轄領となった多摩川を渡って多摩郡の地に入った彼等が、そこで武蔵国を支配するに至った時に、その新たなる直轄領を「ムサシ」と呼ぶようになった。武蔵の語源を私はこのように考えて、その成立を第五世紀の頃とする。そして武蔵国が定められ、国内の広大な荒野を目して、武蔵国の原野という意味で、相模国の平野を相模野、毛の国の関東平野を毛の国の原という意味で毛野というように、武蔵野と呼んだのであると思う。
私は武蔵という国名、あるいはそれに因んだ武蔵野という地名が、元来これらの土地に以前から土着した人びとによってあたえられた地名ではなく、大和から移動してきた人びとによって名附けられた地名であると考えているのである。それはこれが地点名から地域名へと次第に拡大されていった経路が証明されないで、はじめから広範囲に及ぶ地域名-国名として出現するからである。この土地の古くから土着した人びとは、こうした国単位の地名を用いるよりも、地域名であってももっと狭い範囲の地域名-郡・郷・里などの地名-を日常生活の上に必要として使ったであろうし、更に地点名としていろいろな地名を命名していた筈である。そして武蔵とか、それに因んで武蔵野とかいう地名が盛行するのは、武蔵国に、そうした大和方面からの勢力が入ってきて、支配体制が整ってからのことである。こうした国名の固定によって急速に、この地方の歴史が胎動しはじめたことを、われわれははっきりと認めることが必要である。武蔵野の歴史と運命を共にしている昭島市の歴史も、たとえその頃の昭島市域の人びとの生活に関する詳しい記述が、史料として残されていないとしても、同じように昭島市域の人びとの生活の歴史も、武蔵国が確立される頃に一つの転換がもたらされていたことは推定して過がないと思う。