昭島市の歴史は武蔵野開拓史の一翼を荷うと前節でのべたが、それは昭島市の立地条件に基づいて、ややその対象領域を拡げて、微視的にその歴史的性格の本質を、抽象的に表現したものである。そしてその武蔵野とか、武蔵野を主要な領域としている武蔵国とかは、大和の政権の勢力が、この地にまで波及してきたときに、彼等の支配概念の中に生れた一つの政治的な意識によって、より巨視的に中央に対する辺境、末梢地域として扱われ、それに対応してこの地域の歴史にも一つの大きな変革が生じてきたことを指摘したわけである。そこで昭島市の歴史の上でも、武蔵野とか、武蔵国とかの範囲を超えて、より広い視野において、その歴史を一層巨視的に観察すると、それは中央勢力に対立する一地方勢力の拮抗の歴史としてとらえることができる。その場合、中央の人びとが、武蔵国やその周辺の国々をも含む、より広い地域をもって、一概にどのようにみていたかというと、それは東国、すなわち「アヅマ」の国として一括して、彼等に拮抗するものとして捉らえられてきたのである。そしてこの東国という概念は、中央政権が東国にその支配権を拡大してきた、西暦第五世紀以来、武蔵をはじめ、広く関東地方一円を云々する時に、長い間支配的な意識として、日本の歴史の上に作用してきたのである。
さてその東国という概念は、言うまでもなく日本列島の中央、大和地方に政権の中心を定めた倭政権=仁徳王朝が、そこを中心として四周の辺境の地を、勢力圏に編入していく過程において、広くその東方に位置する辺境地域を総称して東国としたのである。アヅマの国というのは、東国という文字で表わされるほかに、「吾嬬国」とも「吾妻国」とも、「我姫国」とも書かれ、また「東夷」と書かれ、「アヅマエミシ」と訓み、それから「蝦夷」(エミシ)とも書いて、東方の異族視され、そういう人びとの住する地域を、広く東国と総称するようになったのである。
いうまでもなく、「東国」とは東方の国の義で、「東」を「アヅマ」と訓むのは、倭建命(ヤマトダケノミコト)が、妃の弟橘姫のことを思って「吾妻(アヅマ)はや」と言われたのによるという地名説話があるが、勿論その説は附会の説でとるに足りない。では「アズマ」の語源は何かといっても、まだ納得のいく確実な説はない。ただ白鳥庫吉博士は、「アヅマ」は太陽の昇る東のことで、それは日の出る方角であり、太陽が出ればすなわち朝が訪れるのであるから、「朝つ方(アサつマ)」すなわち「朝の方角」という意味から出た語で、「アサツマ」→「アヅマ」と転訛したとする説を出されている。
それはともかくとして、東国「アヅマ」という地域は、その語が大和の倭政権の所在地を中央とみて、その東方に所在する未開の地を広く東国と言ったとすると、その地域がはじめから固定していたかというと、大和の人びとからそう呼ばれる地域の範囲は、年代によって著しいズレがあって、一定しておらず、時代を考慮せず一口に「アヅマ」といって、いつも同一範囲をさしていると考えてしまうことはきわめて危険である。大和に根をおろした政権の勢力が東方に進出し、その支配領域が拡大されるにつれて、東国と称される地域の範囲は、次第に東へ東へと移行しながら、漸次縮少されながら限定的になっていく傾向を示すのである。最初の日本の統一国家、いわゆる大和国を主体とした原大和国家-崇神王朝の時代にあっては、政治的関心は専ら大和国より西方に向けられていた。そこでその頃には東方に対しての関心は薄く、大和から九州までを含めた西日本の地域を西国と総称していたのに対比させて、大和一国の東方にある国は、すべて漠然と東方とか東国とかいわれていたにすぎない。その頃は、大和から東に向うと、名張を越えればその先はすべて東国であった。大和国と東国との境は名張越におかれていたので、伊賀国以東はすべて東国であったのである。
この頃の東国についての記載はきわめて少ないが、『日本書紀』では、東国について記されているのは、崇神天皇一〇年の条において、四道将軍派遣の記事があるが、それを以て東国に関する最初のものとする。四道将軍の物語というのは、オホビコノミコトを北陸地方へ、タケヌナカハワケノミコトを東海地方へ、キビツヒコノミコトを西道へ、ミチヌシノミコトを丹波(山陰)に遣わし、服属しない者を伐たせたという伝説であるが、このことを『古事記』では、オホビコノミコトを高志道(北陸、越の国)へ、タケヌナカハワケを東方十二道へ、ヒコイマス王を丹波国へ遣わしたと、派遣将軍の名、人数、方向が異っている。しかしタケヌナカハワケノミコトを『日本書紀』は東海地方へ派遣したとしているのを、『古事記』は東方十二道へ派遣したとしている。これはいずれもいわゆる東国を平定したということを示している物語なのであるが、史実としては、崇神天皇の時代(西暦第三世紀の末期から第四世紀の初頭の頃と想定される)に、東国が大和の政権によって平定されたり、統合されたりしたという史実は考え難い。
次に景行天皇の時代に倭建命(ヤマトタケノミコト、『日本書紀』では日本武尊と書く)が、東方の蝦夷を征伐したという物語が伝えられている。ここで言う、東方のまつろわぬ蝦夷が居住していた地域は、すなわち倭建命によって征服された地域ということになるが、『古事記』によると、命の征服されたコースは、伊勢-尾張-相模-走水の海-上総-足柄坂-甲斐-尾張ということになっている。それを『日本書紀』についてみると、伊勢-駿河-相模-走水の海-上総-陸奥-日高見国-常陸-甲斐-碓日坂-信濃-尾張というコースに拡大されている。これらの物語を通して知り得る所では、東方または東国という観念が、いずれも大和の政権が実際に掌握していた大和国を中心として、その四周の山城・伊賀・紀伊・和泉・摂津などの国々より、その東方にある地域を、漠然と東方または東国と呼んでいたらしいことがわかる。
第五世紀の雄略天皇の頃になると、中国の史書、『宋書』に見える倭王武(雄略天皇)が、宋朝最後の皇帝順帝の昇明二年(四七八)に朝貢した際の上表文の中に、「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、海を渡って北を平ぐこと九十五国」と見え、数代の天皇が相うけて、東方を平定したことを示しているが、ここでは東方の五十五国が征服されていたと伝えられており、その東国の住民が「毛人」と呼ばれていることに注目しなければならない。東国の住民を「毛人」と汎称している上表文が、これを「モウジン」と音読していたことは当然であるが、日本人がそれをどのように訓読し、どういう意味でそう呼んでいたのかは、明確な手懸りがない。「毛人」の語は、「敏達紀」に「蝦夷の魁帥」の注をして、「魁帥は大毛人なり。」としているのをみるが、『釈日本紀』の「景行天皇紀」の「述義」の「佐伯部」の条に、『公望私記』を引いて、捕虜の蝦夷を伊勢神宮の近くに分置したが、「その毛人等が朝夕さわいだ」ということが記されているので、すでに「毛人」は古くから「エミシ」と訓まれていたことがわかる。それでこの上表文の場合の「毛人」が蝦夷と同義であったとすると、蝦夷という語よりも古くから、東国の住民を「毛人」と総称していたことが想定される。そこで「毛人」というのは、大和から東方の地域の住民、すなわち東夷という意味でエミシと同じとする説があり、また「毛人」は東国の毛野国の住民をさしたもので、毛野(上野国・下野国-群馬県から栃木県にかけての地域)国の人だとする説もある。しかしこの史料は、東とか、西とか、あるいは「渡海平北」とかいっているように、厳密に限定的な用法ではないから、「毛人」というのも、畿内より東に住んでいた、大和の政権に服属していない、未開な人びとという程度の意味に解しておくべきであろう。すくなくとも第五世紀の末期までには、大和に基盤をおいた倭政権の支配が、東方においては、名張・逢坂山の線を越えて、更に鈴鹿・不破の線を越え、東海地方に進出し、更に相模地方から、海路をとって、上総・下総にまで及んだので、この段階になると、名張以東を東国といったのが、やや東にずれて、鈴鹿・不破の線以東を東国というようになる。しかも足柄峠を越えて、南関東の海岸地帯がその圏内に入ると、東国という概念は更にその東へずれてきて、やがて東国というと、足柄峠や碓氷峠を境として、その東方の国というような意味に限定されてくるきざしを示しているのである。
第六世紀から第七世紀に入ると、南関東のみならず、毛野国などの北関東の地域までが、完全に大倭政権の勢力圏下に編入されるに至り、律令体制下において東国という概念は、ようやく関八州をその範囲として固定化されてくるのである。『日本書紀』によってみれば、「孝徳紀」に「東方八道」という記述をみるが、これは後の関八州をさしたものではない。古くから言われていた東方十二道が、ここでは八道に限定して言われたものである。『国造本記』や『高橋氏文』にみえる東方十二道について、本居宣長は、伊勢・尾張・参河・遠江・駿河・甲斐・伊豆・相模・武蔵・総・常陸・陸奥に比定している。伊勢には伊賀と志摩の二国が含まれており、総には上総・下総・安房の三国が含まれている。そして陸奥の中には毛野国が含まれているとすると、上野・下野の二国があり、陸奥と日高見国とは区別されているのであるから、これらのことを考慮すると、宣長のいう一二国は、一九ケ国となる。ところで第八世紀の中葉の東国の事情を歌ったと思われる『万葉集』の「東歌」や、「防人歌」について、東(アズマ)の国とされているのは、遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野・陸奥の十三ケ国であるから、この頃になると、伊勢や尾張や参河はすでに東国の概念からはずされており、大体東海・甲信以東を東国とするように、東国の範囲が東に移されていることを示している。その少しく前の段階、たとえば壬申の乱(弘文元年〔六七二〕)のおこった第七世紀の後半期において、東国はなお、東海道では伊賀国より東方にある諸国を、東山道では美濃国以東の地域にある諸国をさしていた。すなわち不破関・鈴鹿関以東を広く東国としていたことは、『日本書紀』の記載で明白であるから、古代においてはまずこの概念が長く中央の人びとをとらえていた考え方であり、奈良朝から平安朝にかけて、それが更に東へ移行し、東海・甲信以遠を東国とするようになり、その後武家の時代になって、漸く今日に通用する足柄・小仏・碓氷などの峠を境として、関東山地や箱根火山などの山岳によって区切られる、古くから言われる関八州、今日の地誌的区分による関東地方の地域を以て東国と限定するようになったものと思われる。したがって少なくとも、都の貴族の支配が衰微し、武士の勢力が抬頭し、やがて武家の政権が、その政治の中枢を相模国鎌倉に定めるようになる頃からであろう。それは武家の勢力が地方に抬頭し、その早い現われをみた平将門が東国でおこした将門の乱(天慶二年〔九三九〕)や、前九年の役(永承六年〔一〇五一〕)・後三年の役(応徳二年〔一〇八五〕)によって源氏が東国を勢力基盤に定めた頃から、特に関東地方が、東国勢力の中枢とみられるようになり、やがて源頼朝が鎌倉に幕府を樹立(建久三年〔一一九二〕)したことによって、東国というとその政権所在地としての相模の鎌倉をもって中心とし、箱根・足柄を境として、その峠の東側を東国とするように固定化してきたと思われる。こうみると東国を関東地方に限定するのは、第一〇世紀中葉以降、漸次そうした概念が固まりはじめて、第一二世紀末にはそれが固定してきたと思われ、この傾向を確立させたのは、第一七世紀における武蔵国の江戸に幕府を定めた徳川家康が、関東入国以来、関八州を支配下に収め、開府以来二六五年に及ぶ江戸時代の政治・文化の中枢が固定して、東国という考えが、それまでの末梢辺境の地という見方が一転して、いまや日本全国の中心地となるに至ったため、そして更に明治維新において、江戸が東京に変り、近代日本国家の中枢、首都となったことにより、過去四〇〇年にわたって、東国こそ日本の中心地帯となったので、首都を囲繞する後背地としての関八州すなわち東国の地域は、いまでは東京を核とする一大首都圏として、名実共に日本の中核地域になったのである。かつての東国は、今日では日本の中枢地帯であり、逆に首都圏の東域を以て、新たに東国といわなければならないし、首都圏の西域は、逆に関西とか西国として、それまで日本の中央であり、そこを中心として、四方を特に東国は最も開化のおくれた地域として、末梢辺境とみてきたのであったが、これからは、西国・関西こそは、首都圏の立場からみると、遠隔の末梢地帯になるわけであるが、やはりそこには四〇〇年以前までの、長い歴史の流れの中で、民族伝統文化の中心地帯であったという基盤があるから、首都圏と対立する伝統文化に支えられて、やはり古い文化の中心地として対峠し得る力をもっている。それにしても、首都圏の発達が、今日においては、かつての関八州とか、東国とかいう概念を、漸次失なわしめていくことは否めない事実である。