二 東国の定義

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 前項で述べた東国についての範囲の規定を綜合して、東国という概念の変遷をふまえ、東国という概念を以下のように規定し、その定義にもとづいて昭島市史を考察していくことにしたい。
(一)東国という概念は、単なる地誌的概念ではなく、きわめて政治的意義を強くもつ概念であって、それは大和を中心とした政権の拡大につれて、大和中心主義的観念によって打ち出された概念である。
(二)したがって東国とは、はじめ大和に発祥した政権が、その支配権を強化するにつれて、四隣を征服・統合していく過程の中で、特にその政権の中心地域の東方に連らなる地域の総称として「アヅマ」と呼ばれ、それに「東」の文字をあて、やがて「東方」とか、「東国」とかの熟語が用いられるようになった。
(三)その範囲は、当初は単に大和地方から東の方角に位置する国々という漠然たる呼称で、後の五畿内と呼ばれる地域に相当する範囲外の、東方にある広大な地域の総称で、その範囲も明確ではなかった。
(四)この段階では、大和国を中心とする大和の政権の支配地域と、東国との境界は、北では逢坂山、南では名張を結ぶ線を以って境とし、その線の外はすべて東国と呼んでいた。おそらく第五世紀から第六世紀頃まではこういう見方が一般的であった。そしてこの時代に東方・東国=「アヅマ」という呼称は固定化され、「アヅマ」あるいは「東方」という語の中には、当代の大和の人びとの間では、単に東の地方というだけではなく、大和の文化を享受していない、未開の人びとの住んでいる蒙昧の地域という、やや侮蔑視した意図が蔵されていることを注意しておく必要がある。それ故に東国の住民を、中国の四夷思想によって、東夷という文字を使って「アヅマエミシ」とか「アヅマエビス」とか呼び、「蝦夷」の文字をあてて「エミシ」とし、また「毛人」という文字をあてているのも、そういう意図に発するものである。これらはすべて、中央政権の立場において、大和中心主義の観点からなされたものである。
(五)第五世紀における大和の政権(仁徳王朝=倭政権)の東方征服が活発化し、その世紀の末には、南関東にまで大和の勢力が浸透していき、大和人の間に東方の地誌的概念がやや明確になってくると、東国についての認識も、以前よりも多分に明確になってきた。そして東国も漸次全般的な総称から、地域的な区分が若干用いられるようになり、いくつかの地域ブロック的な把握がなされたようである。東海地区とか、伊豆とか、相模とか、総とか、甲斐とかに区分されていたと思われるが、それが後の「東方十二道」とか、「東山道十五国」とか、あるいは「東方八道」とかいわれる区分がなされる前提となっている。
(六)この段階では、大和政権の勢力の拡大によって畿内の領域も周辺に向ってやや拡大され、それによって東国の範囲も、以前よりも多少東へ移動し、その境界を不破関と鈴鹿関とを結ぶ、鈴鹿・伊吹の両山嶺を以て境界とし、それより東方、美濃・尾張以東の諸国をさして東国と呼ぶに至った。第六世紀より第七世紀にかけては、こういう見方が一般の大和人の間に通用した、東国に対する概念であったように思われる。
(七)大化改新によって律令制の施行と共に地方制度が整えられ、中央と地方との連繋が密になるに従って、地方区画も整い、東方十二道の規定も限定的に確立してきたが、第八世紀になると、東国の概念が、前世紀までのそれよりも更に限定され、不破・鈴鹿両関の境界線を越えて、天龍川筋をもって境界とし、東海・甲信・関東八州を含め、一部陸奥(東北地方南部)をも加えた地域に限定するようになった。平安朝初期まではこの概念で「アヅマ」=東国を規定したようである。
(八)武家勢力の抬頭する第一〇世紀以降、武家勢力の中心が関東地方に移り、それまでの大和政権を支えていた貴族の勢力の衰微につれて、東国はその勢力の中心になった関八州に限定されるようになり、頼朝の鎌倉幕府創建はこの傾向を決定的なものとするに至り、関八州をもって東国と規定するような体制を生み出し、東国=「アズマ」は、足柄・箱根から碓氷峠など関東の山地を境界として、それ以東を東国とすることになり、ここに漸く今日の関八州=関東地方を東国とする概念が確立される端緒を見出し得る。そして更にそれを決定的なものにしたのは、徳川家康が江戸に幕府を開き、以後二六五年間にわたり江戸が日本の政治の中心地となったことであった。
(九)更に明治以後江戸が東京となり、日本の首都が京都から東遷して、引続き日本の中心が東国に定まって今日に及んだ。最早かつての東国は、日本の中心からはずれた東方の辺境ではなく、逆に日本のセンターとなり、かつての東国という概念は消え失せたが、そこにはなお嘗ての東国という、地誌的並びに歴史的な特質は伝統的に根強く残存している。
 以上のような東国について、私はそれを次のように定義づけておく。
  東国とは、江戸に徳川幕府が設けられる以前、日本の政治・文化・経済等、凡ゆる面での中心が畿内に存在した時代に、その地域の東方辺境の末梢地域を指した名称であり、畿内の政権の支配が東方に拡大するに伴い、その地域は漸次限定的になり、やがて武家政権が確立するに至ると、東国が畿内にかわってその時代の政治・文化・経済の中心的座を占めるようになる。すると畿内の側からは、その中心地を包含する関東地方を特に東国として、限定的に意識するようになり、箱根・足柄以東の関八州、相模・武蔵・上総・下総・安房・常陸・上野・下野の八ケ国を東国と称するに至った。江戸幕府開府以後、更に明治維新後、日本の首都が東京に遷ってから今日まで、東国が逆に日本の中心となったので、かつての東国という観念は薄らいできたが、日本列島の全域から通観して、その地誌的特色並びに歴史的特質から考えると、関東地方を日本列島の中で特に東国として捉らえることは、嘗ての大和中心主義的概念に発する侮蔑視的な東国の意味とは無関係に、その特質の把握の点できわめて便宜であるから、今日東国という概念を用いるとすれば、このような定義のもとで用いることはよいであろう。
 以上のように私は東国の意義を理解する。ここで東国と呼ぶ地域には、やはり全体として一つの共通した地誌的・歴史的環境によって培われてきた独特の資質が形成されているように思われる。それ故、東国における歴史的研究には、東国史として共通する特質を把握しておくことが、研究上必要である。昭島市の歴史もまた東国の領域の内に含まれ、しかも江戸幕府、つづいて首都東京の、いわゆるお膝元の地域であるので、特にそうした地域としての影響を陰に陽につねに受容してきている筈である。したがってこうした東国史的特質を一応明確に把握していくことが、昭島市史の理解を深める上できわめて有効であるから、次節において、特に東国の歴史を貫いてみられる特質について触言し、昭島市史の理解の一助としておこうと思う。地域史としての昭島市史は、微視的にみれば前節で述べた如く武蔵野史の一翼を荷うものであり、東国史としての特質を共有するからである。