一 東国の特質

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 前節においてみてきたように、東国という概念は、歴史的に移動があり、漸次その概念は限定的となってきたが、その基本的な概念は、日本列島に発祥した始原的小国家群が、漸次統一の気運に向かい、その統一政権が、大和国を中心として、五畿内を基礎的な勢力範囲とし、それよりも西方を統合した時、その勢力の中心圏外の東方を東国として、西日本の地域を西国というのに対比的に用いられた概念であることは、凡ゆる場合に共通して認められる所である。したがって、東国というのは、あくまで大和を中心として成立する大和中心主義的観点から成立っている概念である。後に、東国にわが国の政治の中心が移ってきた後も、既成の東国という概念は消滅せず、そのまま存続してきたのである。鎌倉時代になって、はじめて東国は日本の政治の中心となったが、つづいて江戸時代には東国は名実共に日本の中心であり、しかも現代において、首都圏を含む東国は、日本のすべての点において、日本国の中心の座を占める地域であるが、それに対して、東国を中心にみて、その圏外の西方を西国という概念で、従来の東国といってきたのと同じような意味をもたせて、辺境ないしは末梢の地域というように考えることはない。やはり東国というのは、千年以上の長い歴史的過程を通じて、日本の首都が大和地方にあり、江戸時代において確かに東国は江戸を中心とした、日本の政治の実際上の首都ではあったけれども、京都になお天皇の皇居が、平安時代からの伝統を守って存在していたということがあって、「アヅマ」とか東国という時には、やはり従来の、大和を日本の中心とみる概念によって、辺境の地というみかたが遺存していた。関西地方を京・上方と呼んだり、上方という言葉が端的に示しているように、また東西交通の往還に際して、京都を中心として、上り、下りの規定があり、京に近い方向に「上(カミ)」、京より遠い方角を「下(シモ)」という呼び慣わしが各地の地名に見られるように、京都を中心とする見かたが主流を占めていた。陸路のみならず、海路の場合でも、航海の船の往還は関西を中心にして、上り便と下り便が定められていた。灘の清酒は江戸に大量に運ばれたが、それは「下り酒」と呼ばれていたことでもわかる。明治天皇の東京遷都によって、江戸が東京と改められ、維新政府が、天皇と共に、東京に定着してから、漸く鉄道だけは、東京駅を中心に、上下線の呼び方が改められ、全国から東京に向う列車線が上り線、東京から全国各地に向う線が下り線と称されるようになっている。しかしいまでも関西、特に京・大阪を上方と呼び、その住民を関西人と呼ぶよりも「上方の人間」とか、「上方のひと」と呼ぶのが普通である。東国というのは歴史的概念としてできあがってきたものである。いま私は前節でもふれたように、それに地誌的概念を加味させて、東国とは、関東地方に限って、古くから言われている関八州を東国とみることにし、その地域の住民を東国人と称し、「アヅマビト」とすることにしたい。
 東国という地域を右のように地誌的に限定して、その地域の住民を対象とし、その歴史を一地域の特殊史としてとらえるのが、東国史である。東国史はしたがって、日本史の中での東国の特殊性に視点をおいて、その差異性を究明することを目的とする。そのためには、東国の歴史的な特質を明確にしておく必要がある。
 前節で述べたように、東国史は開拓史という性格を基礎とすると言うのは、逆にみると、東国は日本列島の中での後進地域であったということになる。そしてその後進地域の開発が、いつ、いかにして、推進されたかにかかわる歴史ということになる。それはあくまで大和が先進地帯であり、その政治勢力が東に征服・統合の鋒先を進め、逐次東国を統合していくにつれて、その文化が東国に伝播して、東国の開化を進展させたという意味をもたすことになる。しかし事実は、それ程単純に図式化されるものではなく、歴史的にみると、東国には東国としての、独自な特質をもった歴史がある。
 まず大和政権が誕生し、それが強大化して、統一政権となり、東国への進攻作戦を継続して行なうようになる時代よりも、遙かに以前、すなわち、新石器時代の繩文時代には、東国の地域こそは文化の中心地帯であった。日本列島における文化の先進地帯は、まず東日本にあったことは既説の通りで、原日本人の文化は、まず東日本、特に古東京湾沿岸地帯を中心に展開し、そこからこの文化が西日本へと波及したわけである。いわば東国は最も古い日本固有文化の中心地として、日本列島に君臨していたのであった。ところが停滞的なこの北方文化は東国を中心として独自の展開をみせたが、新しい文化の刺戟を受容せず、伝統的な文化を形成していた時に、西日本では南方及び大陸から新しい異文化が伝播してきて、それらの新来の文化要素を複合して、徐々に文化変化をひきおこしてきた。やがて弥生文化が北九州を中心として発達しはじめ、それが逆に西日本から東日本へと、主として海路を通って伝播すると、繩文文化は急速にこの新来の文化を受容しつつ、変貌していった。そして文化の中心地は漸次東から西へと移動していった。この金属器や水稲耕作の技術を含む新文化は、列島内部の社会変革を惹起し、国家組織がこの文化センターの地域で形成されるに至って、弥生時代から、つづく古墳時代にかけて、九州や近畿地方を含む西日本が中心となって、東国のそれまでの中心地帯としての地位が失なわれるに至った。そして西日本の政治権力の強大化につれて、弥生文化や、古墳文化が、西日本中心に発達をとげると、東国は立ち遅れた後進地帯に堕する結果を将来した。しかし数千年間の長期にわたり、日本の文化の中心であった東国では、弥生文化の受容後も、いろいろな面で固有文化を長く持続させて、伝統的な独特な文化をもち、独自の地誌的並びに歴史的な生活環境を現出していたことが、西日本の、特に大和政権の人びとから、東国として特殊視されることにもなり、東国の住民が「蝦夷(エミシ)」と称され、異族視されることにもなったのである。アヅマエミシ-アズマエビス(東夷)という言葉は、このような歴史的環境から生れた。
 東国の住民を「エミシ」と呼び、「蝦夷」・「毛人」などの漢字が与えられ、恰も大和地方の日本人に対立する異族のように言われ、一時はこれをアイヌ人の祖先であったかのように解されたこともあったが、そうではなく、中には北海道方面から本州島に渡来し土着したアイヌ人の場合もあったであろうが、それは東北北部の三県(青森・秋田・岩手)の場合以外、宮城・山形以南の地域、特に東国では、そういう例は稀であり、日本民族の祖先である種族として、決して大和地方の住民と異る種族であったのではない。要するに東国の住民が、大和人からみて、異族視されたのは、その伝統的な生活様式が、大和人のそれと多少異なる要素を強くもっていたために、そういう異族としての錯覚をおこさせた理由であった。『日本書紀』には、武内宿禰が東国より帰って東夷の生活様態を景行天皇に伏奏した時の言葉として、「東夷のうちに、日高見の国あり。その国の人、男女ならびに髪をわけ、文身して、ひととなり勇悍なり。これすべて蝦夷と言う。また土地こえて広し」とあり、また景行天皇の詔に、「その東夷の中に、蝦夷は是れはなはだ強し。男女交り居り、父子別なし。冬は穴に宿し、夏は樔に住む。毛を着、血を飲みて、昆弟相疑う。山に登ること飛禽の如く、草を走ること逃ぐる獣の如し。恩を承けては忘れ、怨をみては必ず報ゆ。是をもちて、箭を頭髻にかくし、刀を衣の中に佩く。或いは党類をあつめて、辺堺を犯す。或は農桑をうかがいて人民をかすむ。撃てば草に隠る。追えば山に入る。故往古よりこのかた、未だ王化にしたがはず。」とある。
 要するに蝦夷と大和人とは生活様式が異ることが明らかにされているのであって、大和人が農耕民であるのに、東夷はなお伝統的な狩猟・漁撈を主とした生活で、穴居生活をつづけており、夏の家と冬の家とが区別されているという。そして性勇悍・強暴で、弓矢をよくし、原野をかけ廻ることが得意であった。そしてこの東国の住民は伝統的に西国の人に対して、強豪であり、質実剛健であって、一騎当千の強勇だと一般に信じられていたことがわかる。
 こうした東国人の特質は、広大な原野・森林の連続する関東平野を生活の基盤とした人びとに、自ずから狩猟や漁撈の生業、あるいは放牧の生活を可能にし、永続させた。そしてこのような生活条件が、農耕生活を早くから基盤としてきた大和人の生活様式とは、異った様式をとらせるに至ったのである。このことは文化に与える自然景観の相異によるものであって、種族を異にすることによってもたらされたものではない。
 ただ東国人と、大和人との間に、種族的な差異性、特に形質上に相異点が若干あるとすれば、それは民族形成過程における、異族との混血の地域的な相異と、混血種族の異なる度合によって多少の差異があるという点が推測される。日本列島内における日本民族形成の過程で、基幹人種となっている原日本人と、東国においては、原アイヌ人との混血が行なわれていたことはまず想像に難くはないが、それとても言われる程に度合の高いものではなく、むしろ間接的なものではなかったかと思われる。そしてまた日本海沿岸に分布した朝鮮半島の東・南部の韓民族、新羅人や高句麗人が、東山道を通り、信濃を経て北関東に移動してきているし、あるいは南関東方面には甲斐を通って移動してきた。これらの大陸系の渡来・帰化種族は、出雲系氏族と同じ経路を通って、早くから移動・分布し、繩文文化以来の原日本人と東国で混血をしている。更には大和人の基幹をなす農耕民は、海路を通って南関東太平洋岸や、古東京湾沿岸に移動し、弥生文化をもたらしているので、こうした人びとの混血も考えられる。これら多要素的な異族との若干の混血が地域的に行なわれ、それらが定着し、融合して形成されたのが、いわゆる蝦夷とか、毛人とか呼ばれた東国人の実態にほかならない。西日本における南方系諸種族との混血の度合がきわめて低いか、またはそれが間接的であったことが、大和人と東国人との形質的な若干の差異をもたらす点であったし、また大和人が朝鮮からの帰化系氏族としては、韓民族のうちの百済人を主体としているのに、東国人にあっては同じく韓民族系ではあっても、新羅や高句麗人を主体としていたことが、形質的・文化的に多少の相異をもたらす原因の一つに数えあげることができるであろう。
 以上の諸点は東国及び東国人の特質の基盤をなす要件としてあげることができる。