三 最初の昭島人

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 多摩川左岸では野川流域、狭山丘陵南斜面、右岸では草花丘陵東南斜面に旧石器時代人活躍の中心があるが、多摩川沿岸段丘縁辺部での旧石器時代遺跡はまれである。それらは拝島段丘や青柳段丘に認められないのはもちろんで、立川段丘面に営まれた。
 林ノ上遺跡(拝島町)は立川段丘末端に位置し、繩文時代早期の土器が発見される遺跡であるが、甲野勇氏が調査責任者となり、和田哲氏らが調査員となって昭和三六年八月に発掘調査を実施した。その報告書によれば、繩文早期の土器の外に、スクレーパー、ナイフ形石器、礫器など旧石器と思われるものや石鏃、打製石斧、石皿が発見された。これらの石器の一部について『東京都遺跡地図』は先土器時代(旧石器時代)のものとしており、繩文時代との複合遺跡と認めている。報告書はあくまで繩文時代早期の石器としており、和田哲氏は旧石器について調査時所見では疑問として、否定的であり、報告書と同じ立場をとっている。
 後期旧石器時代の遺跡はじばしば繩文時代早・前期と複合し、それは生活条件が両者に共通して都合よかったことを示しており、この点では林ノ上遺跡は旧石器を出土しても不思議はないといえよう。
 昭島市域で立川段丘面の調査いかんによって、旧石器時代遺跡が発見されることもあろうが、ここでは林ノ上遺跡出土の石器は旧石器の可能性はあっても、報告書や和田哲氏の指摘に従いたいと思う。
 最初の昭島人は尖頭器を着けた槍をもって野獣を追ってきた狩人であった。昭島市北部を流れる玉川上水に接した上川原町と上川原遺跡から、それぞれ各一個の尖頭器が発見されている。それは後期旧石器時代末の、今から一万年~一万三千年前のものといえよう。尖頭器の発見された上川原町には旧石器時代遺跡はなく、その意味では文字通りの昭島人とはいえず、昭島市域で狩をした旧石器時代人である。多摩川左岸流域では尖頭器はあちこちで採集されており、尖頭器を持った人々の活動が目立つ。彼らは野獣を追って武蔵野台をかけめぐっていたのであろう。