二 尖頭器文化

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 最初の昭島人が使っていた石器は尖頭器であった。尖頭器は槍先の形をし、上下とも尖っていて、その断面は両面加工によって菱形になる。尖頭器は片面加工・半両面加工・周辺加工などのものもある。尖頭器には、一般に尖頭器と呼ばれているものの外に、剥片尖頭器、有舌尖頭器、石刃尖頭器などがあり、有舌尖頭器は尖頭器と同時期の尖頭器で、最もすすんだ石器である。尖頭器の時期は後期旧石器時代のなかでも最末期に当り、また気候の上ではウルム亜氷期後期で、芹沢長介氏は晩期旧石器時代または中石器時代として石刃技法が盛んであった時代とは区別している。そして、有舌尖頭器が最も特徴的に現われ、それは投槍の槍先として利用されたと考えている。
 尖頭器の出現は狩猟に画期的な効果をもたらしたであろう。腕の力だけでは投げる距離に限界はあったが、数十メートルはとばすことが可能であったし、投槍器なるものを利用すれば百メートル余投げられるという。したがって、狩猟法に一段の進歩を示し、それは集団生活にも影響を与えたのではなかろうか。
 有舌尖頭器は石鏃によく似ている。小形にすれば有茎の石鏃と変らない。次の新石器時代である繩文時代には石鏃が現われ、弓矢による狩猟が行なわれた。有舌尖頭器が弓矢発明の引き金となり、有舌尖頭器の消滅は弓矢の普及を意味していよう。
 新石器時代の特色の一つに磨製石器の存在があげられる。長野県伊那谷の御子柴遺跡ではローム層から五〇数個の石器が一括して発見され、尖頭器などに混って大形の局部磨製石斧が一三本も数えられた。これは、尖頭器の時代に石斧の磨製が行なわれていたことを証明した。
 また、この時期には土器も創られた。細石刃や尖頭器にともなって、土器が長崎県福井洞穴、長崎県泉福寺洞穴、愛媛県上黒岩陰遺跡など西日本から東日本の各地に発見されるようになった。
 尖頭器文化は、次の繩文時代に発展した狩猟法、石器製作技法、土器製作技法の基本が創造された時期として、また日本列島が形成された時期として、日本の歴史における画期であったといえよう。