勝坂式土器(西上遺跡出土)
土器は後期旧石器時代の末期に現われた。尖頭器や有舌尖頭器が使用されている時代であったが、それは今から一万年余も昔のことといわれる。愛媛県上黒岩岩陰遺跡は九枚の文化層からなっており、第九層の最下層から有舌尖頭とともに、土器表面に細い粘土紐をはりつけた隆起線文土器とよばれる粗雑な土器が出土し、また長崎県福井洞穴でも第三層から隆起線文土器とともに細石刃とその原材料となった舟底形細石刃核が発見され、その下層の第四層からは細石刃、尖頭器など石器ばかりで土器が出土せず、これらの結果から土器は尖頭器・細石刃の時期にあることが明らかになった。隆起線文は隆線文や細隆文などともよばれる。
麻生優氏はここ数年間長崎県泉福寺洞穴の調査をすすめているが、細石刃・隆起線文土器を出土した文化層の下層から、豆粒(とうりゅう)文土器と呼んだ土器が出土し、隆起線文土器に先行するものと位置づけた。昭和五二年夏の調査では豆粒文土器文化層の下層から無文土器が発見され、隆起線文土器より古い土器の存在がますます明確になった。無文土器は豆粒文土器の一部であり、豆粒文土器出現がさかのぼることも考えられている。それは今から一万二千~一万三千年前にもなるのであろうか。
土器の出現は後期旧石器時代人の食生活を豊富にした。土器のない食生活は生で食べるか焼くかであったが、土器は煮るという料理法をもたらした。豆粒文土器は九州の一部に現われたもので、広く新しい料理法が普及するのは隆起線文土器になってからである。
隆起線文土器は世界最古といわれ、またそれより古い豆粒文土器の日本列島における存在は、土器の発明が日本列島で行なわれたことを意味している。従来、土器は約八千五百年前西アジアで発明されたといわれた。しかし今日では世界の各地で土器発明が行なわれたと認めざるを得ない。日本列島で発明された土器は繩文式土器、弥生式土器、土師器へと受けつがれた。
日本列島における土器発明はどのようなきっかけによったものであろうか。最古の土器が確定しない状況では単なる想像にすぎないが、粘土が水を通さないことを気づいた時に土器発明の歴史が始ったのではなかろうか。集落を構成しているかぎり、水の持ち運びは日常の仕事であり、水を手の掌に入れたとき粘土を指間に塗っておけばもらないが、その事が旧石器時代人に知られ、水の持ち運び容器にも粘土を塗って水もれを防いだと想像される。水運び容器が火に当って消失したとき、塗られていた粘土だけは残った。あるいは、以前から粘土は火に当ると固ることが知られていたかも知れない。粘土は水を通さず、火にあって固まるという二つの性格が知られたとき、土器発明が行なわれたものであろう。