繩文文化の科学的研究は関東地方で始まった。明治一一年、アメリカ人エドワード・モールスは東京品川の大森貝塚を発掘し、繩文文化研究の端緒を開き、その後今日に到るまで繩文文化の研究は関東を中心に展開されてきた。そのため、関東の繩文式土器は繩文式土器編年の基準となり、関東・東北繩文文化の解明が最も進んでいる。
関東の土器は小金井市西之台遺跡や前原遺跡から有舌尖頭器に伴出した隆起線文を最古として、爪形文・押圧繩文などが発見されている。埼玉県橋立岩陰遺跡では有舌尖頭器は隆起線文土器を出土した第四層、爪形文・押圧繩文土器を出土した第五層からも出土しており、繩文式土器の起源は尖頭器文化のなかにあり、押圧繩文につづく撚糸文は繩文文化として把えられる。昭島市林ノ上遺跡などの井草式に始まる撚糸文系土器は、大丸式→夏島式→稲荷台式→花輪台Ⅰ式へとつづき、早期前半の特徴的土器群を形成している。
このあとに沈線文の土器がつづき、南関東を中心として周辺地域に広がり、まもなく植物繊維を含んだ土器が現われ、これは前期前半の土器を特色づけた。尖底土器は早期で終結し、平底に代る。前期前半には繩目文様が極度に発達し、種々の施文具が用いられた。後半に入ると、土器に含まれていた植物繊維は消失し、竹管を用いてえがいた文様が主流を占めた。
土器に粘土をはりつけて文様や装飾をつくりだす方法は前期から現われ、中期の勝坂式土器にいたって極点に達した。時期が下るに従い装飾が簡素化するとともに、磨消繩文が現われた。この磨消繩文と薄くて堅い精製土器は後・晩期の特徴となった。
関東における最後の繩文式土器は荒海式土器と呼ばれるもので、亀ケ岡式土器の系譜に属し、弥生式土器の影響を受けたものといわれる。物理的年代測定による結果では紀元前四世紀を中心とした年代という。この年代は荒海貝塚の形成された時期であるから、荒海式の年代はさらに下ると見られる。