二 縄文時代早・前期の東国

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 日本列島が形成されるとともに、その海岸線も旧石器時代末期より後退しはじめた。繩文早期の貝塚分布から知られる東京湾は現状より奥深かかった。旧奥東京湾は荒川をさかのぼって群馬県藤岡にまで達し、多摩川の下流低地にも入り込んでいた。また、利根川流域にも内湾が発達し、北浦・霞ケ浦・印幡沼・手賀沼を結び、茨城県古河に及ぶ古鬼怒湾となっていた。この二つの湾の海岸線は早・前期を通じてほとんど変らなかった。
 このように内湾の発達した関東ではそこに生息する魚類・貝類を食料としたことは当然で、貝殻の堆積があちこちに点在するのもその結果である。貝類は淡水産のヤマトシジミや鹹水産のアカニシ、ハマグリなどで、集落の占有できた領域内で採ったものであった。魚は骨角製の釣針や銛でとっていた。
 狩猟活動も活発で、弓矢・槍を利用し、犬を飼っていた。狩猟対象はシカ・イノシシなどであった。
 繩文草期の竪穴式住居は千葉県西ノ城貝塚や茨城県花輪台貝塚から発見されている。前者は井草式土器時代のもので、関東では最古の繩文時代の住居址であった。平面は不整形で、その中央にほぼ方形に一〇数個の小さな穴が掘られていた。それはあたかも尖底土器を定置するための凹みのように思われた。花輪台貝塚の住居址は方形で、炉はなかった。繩文早期の東国人は屋外で火をもやし、料理していたと考えられている。早期末の茅山式土器の時代に入っても屋内に炉は設けられず、とくにこの時期には一ケ所にたくさんの炉穴が発見されている。

塩野氏発掘の際に現れた不整形の穴

 前期に入ると、炉は屋内に設けられるようになり、平底土器の普及と屋内炉の設置は関係があると考えられている。この期の住居跡として神奈川県南堀貝塚がよく知られている。南堀貝塚の集落は馬蹄形に展開し、中央に広場が設けられている。前期以降繩文時代集落は集落の中央に広場を設けている。