三 縄文時代中・後期の東国

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 繩文時代中・後期になると、海退は急速にすすみ、奥東京湾の海岸は浦和附近まで後退し、鬼怒湾は北浦・霞ケ浦から成田附近の利根川沖積地の地域になってしまった。多摩川下流域は若干海岸線が後退したとはいえ、鹹水産貝類を出土する貝塚の位置は前期からほとんど変っていない。
 内湾が縮小し、以前塩分の多い水が入り込んでいた地域が淡水化したため、生息する貝類や、魚類に変化がみられた。海水の後退は淡水貝類・魚類の繁殖をうながし、中・後期は関東平野における漁撈活動の盛行期となった。千葉県の貝塚総数に占めるこの期の貝塚は七〇パーセントに達するだけでなく、その規模は他を圧倒している。千葉県加曽利貝塚、堀ノ内貝塚、茨城県陸平貝塚などは場所によっては貝層が数メートルもあり、大規模貝塚である。
 利根川下流や東京湾岸の漁撈は鹹水産のハマグリ・アサリ・シオフキなど、魚類はマダイ・クロダイなどをとっており、湾の奥に入り、塩水(鹹水)の流入が少ないところではヤマトシジミがたくさんとれ、フグ・マダイ・クロダイなども捕獲し、淡水のコイも少なくなった。
 この頃から漁撈貝として従来の骨角製固定銛よりすぐれた回転離頭銛が使われはじめ、鬼怒湾地域では魚網の普及も著しかった。魚網のおもりに利用された土器片に加工した土錘がこの地域の貝塚や集落址から多く発見される。
 漁撈具としての石器は石錘や軽石製の浮子であったが、前代に現われたたたき石・磨石・石皿・凹石の普及は著しく、木の実などの植物食が食料の主要な部分を占めたことを意味している。とりわけ、内湾・湖沼にめぐまれない内陸部ではシカ・イノシシなどの野獣と木の実・植物根にたよっていたと思われる。
 この時期になると打製石斧が盛行した。中期には短冊形とバチ形であったが、中期末頃から現われはじめた分銅形石斧は後期の特徴的打製石斧となった。バチ形と分銅形石斧にはかなり大形のものもあり、木材加工に使用されたのではなく、土掘り具と考えられている。凹石・磨石・打製石斧の盛行は原始的農耕の開始を想定できるとする考えがみられる。打製石斧は竪穴住居の土掘り、ヤマイモ・サトイモの採取に利用されたことは十分考えられても、植物栽培を証拠だてるまでにはいたっていない。
 繩文中・後期の遺跡は繩文時代を通じて最も多い。このことは豊富な食料資源とその獲得法が発達した結果、急激な人口増加をまねき、それは陽当りよく水の豊富な場所には集落が営まれたからであろう。集落は馬蹄形に営まれ、馬蹄形貝塚の形成はこの時期であった。集落規模も大きくなり一〇数基の竪穴住居からなるものも少なくなかった。

西上遺跡出土打製石斧