四 縄文時代晩期から弥生時代へ

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 弥生時代は西日本から始まった。水稲耕作は急速に東方へ伝播されたが、東国では繩文時代後期後半から人口増加による食料資源の過剰採取と、内湾・湖沼への土砂の堆積によって採集経済のゆきづまりをきたし始めていた。しかし、生産社会をむかえねばならないほど社会的矛盾は増大していなかった。後期末の遺跡の分布は東京湾岸・利根川・霞ケ浦の沿岸に集中し、内陸部では急激な減少を示し、人々の居住可能地域がせばめられた。人口増加がとまり、採集経済は停滞してしまったといえよう。
 土器文様にみられる東北の亀岡式土器文化の影響は強く、漁撈を中心とした生活が展開していたものと思われる。
 繩文晩期に入ると居住可能地域は一層せばめられ、漁撈活動にもゆきづまりが生じはじめた。魚貝類やイノシシ・シカは依然として食料の中心ではあったが、その収獲量は著しく減少し、新しい食料の登場が必然のこととなっていた。
 千葉県成田市の荒海貝塚は繩文時代終末の貝塚として知られている。この貝塚からは後期終末の安行Ⅰ・Ⅱ式、晩期の安行Ⅲ式・姥山式・前浦式・大洞CⅡ式・千網式・荒海式とよばれる繩文式土器が出土し、とりわけ粗製土器として一括された撚糸文・ハケ目文・貝殻条痕文・無文の土器量は全体の七〇~八〇パーセントに達している。貝層中の主体的土器は荒海式で、貝の採集はこの時期をもって終了したと考えられている。荒海式の地文に無文地の外にハケ目文・貝殻条痕文があり、亀ケ岡文化系の関東晩期繩文文化のなかに、東海地方の弥生文化が入り込んできたことが知られている。そして、まもなく弥生文化は繩文文化を凌駕し、大量の粗製土器を出現させた。粗製土器は南関東の宮ノ台式や中野式の弥生式土器に相当すると思われ、霞ケ浦や利根川下流沿岸で繩文文化の消長が見られる一方、早くから繩文文化のゆきづまりをきたしていた関東地方の一部では、荒海式土器以前に生産社会に突入していたと思われる。東海地方の、種モミを関東地方に運び入れた土器といわれる条痕文土器は繩文晩期にもたらされたといえよう。荒海貝塚は繩文文化から弥生文化への過度期に形成され、その実態を明らかにする重要な貝塚である。