一 上川原・林ノ上遺跡と最初の昭島縄文人

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 旧石器時代末期に尖頭器を着けた槍をもち、野獣を追って昭島市域へ入った狩人がいた。彼を最初の昭島人と呼んだが、昭島に居住した狩人ではなかった。狩猟法が投槍から弓矢へと発達し、野獣の捕獲は容易になり、食料の煮たきも可能になった。狩人の行動範囲は以前より狭くても食料は十分確保でき、一ヶ所にとどまる期間が永くなり、集団内の人口増加は新しい集団分化を生み、集落は南関東を中心に増えていった。彼らは井草式土器とよばれている初期の繩文式土器をもっていた。上川原と林ノ上遺跡はこのような土器をもった人々が昭島市域へ進出し、形成した集落であった。彼らこそ文字通りの昭島人であったのである。

昭島市域の主な繩文時代集落

 林ノ上・上川原遺跡の土器は夏島式が主体で、林ノ上では少量の井草式、上川原の場合は土壙状遺構に埋没していたと推定されている完形井草式土器がある。井草式土器は西上遺跡からも採集されており、昭島市域では以上の三地点が最初の昭島人の居住地であった。集落の規模や状況、生活の実態は明らかでないが、小規模集団が狩猟を主として一定期間定住していたものと思われる。三地点の井草式土器は同一集団の残したものであるかも知れない。とくに上川原遺跡の完形土器の出土状況は特殊である。

林ノ上遺跡出土の縄文式土器

 上川原と林ノ上遺跡は立川段丘の崖線上で、陽当りよく湧水もあった。西上遺跡は青柳段丘に位置し、そこは繩文早期ではまだ良好な生活環境をそなえていなかったかも知れない。
 彼らの土器以外の道具は不明である。日本列島のなかでは弓矢はかなり普及していたと思われるが、昭島井草人はまだその恩恵にあずかっていなかったと見られよう。
 夏島式土器は上川原・林ノ上遺跡から採集される。両遺跡とも散布範囲はかなり広く、それぞれ五千平方メートルに達するのではないだろうか。二つの遺跡はそれぞれ異った集団が残したものと想像される。集落規模も比較的大きく、住居数は二ケタを数えたであろう。どちらの遺跡でも同種の石鏃が発見されており、弓矢を用いた狩猟が行なわれていたことを思わせる。発見された石鏃は、夏島式土器にともなうものかどうか疑問視されてはいる。
 上川原遺跡はC・T・キリー氏が昭和四五年に発見し、和田哲氏が昭和四五年と昭和五〇年の二次に亘って発掘調査を実施した。第一次調査の際、前述の井草式完形土器は発見されたものであったが、出土土器の八〇パーセントは撚糸文の土器で、夏島式土器に当る。第二次調査でもこの傾向は変らず、遺跡出土の石器は、打製石斧・局部磨製石斧・磨石・凹石・敲石・石皿・冠状石器・石鏃・刃器・スクレイパー・礫石などが知られている。これらの石器によって、昭島夏島人は動物・植物ともに主要な食料であったことが分る。磨石・凹石・敲石・石皿・冠状石器など木の実破砕・粉末石器がすべてそろっているだけではなく、それらが多数発見されていることは、ドングリ・トチ・クルミなどが昭島市域には豊富で、食料のかなりの部分をそれらにたよっていたと思われる。多摩川が集落の南を流れているとはいえ、ヤマトシジミなどの生息はみられず、魚類も豊富ではなかった。野獣と木の実が昭島夏島人の食料であったといえよう。

上川原遺跡出土の石器


上川原遺跡出土の石器

 第一次・第二次調査を通して住居址は確認されなかった。しかし、第一次では土器が濃密に分布した範囲が三ヶ所知られ、和田哲氏はそれを野外作業場と考えている。第二次では火熱を受けた礫群が認められ、野外料理場であったとされている。第二次の調査対象となったガソリンスタンドにはやけた礫がかなり散乱しており、道路をへだてた東方にまで広がり、礫群はいくつか形成されたものと思われる。土器が濃密に散布する地点は、あるいは住居の営まれた場所であったかも知れない。炉は屋内に設けず、野外で料理し、他の作業もすべて野外で行なった。

上川原遺跡の礫群

 林ノ上遺跡は昭和一六年に塩野半十郎氏によって発見されたもので、昭和二二年に後藤守一氏らによって発掘された。この調査は多摩地方における大戦終了後初の本格的な調査といわれ、「拝島式」と名づけられた撚糸文土器と不整形な住居址が発見された。「拝島式」は、神奈川県夏島貝塚の発掘によって編年的位置づけが行なわれ、夏島式とよばれるようになった。
 林ノ上遺跡の第二次の調査は昭和三六年、甲野勇氏らによって実施され、不整形な竪穴と井草式・夏島式・山形押型文・格子目状押型文、石器多数が検出された。
 二次に亘る林ノ上遺跡の調査によって、夏島式土器を主体とした遺跡であることが明らかになり、とりわけ内陸部における撚糸文の竪穴式住居が確認できたことは貴重であった。第一次では、東西に長い楕円形状の竪穴式住居、完形の夏島式土器が発掘された。住居址の大きさは約二メートル×三メートルで、表土から床面まで二メートルを測った。炉址はなく、料理は屋外で行なわれた。第二次でも推定住居址一基が発見された。規模は一メートル×一・八メートルで、不整形の楕円で、表土から一・三メートルの深さであった。また、表土から六〇センチの所に住居址に接して配石遺構があり、石皿と磨石が出土した。
 林ノ上遺跡の石器には、スクレーパー、礫器、打製石斧、局部磨製石斧、石鏃、槌石、石皿、磨石などが知られており、上川原遺跡の場合と変らない。
 林ノ上・上川原の地点は早期の人々には住みやすい所であった。林ノ上の昭島夏島人は深い竪穴住居をつくり、上川原人は竪穴をつくらなかったようである。これは、両地点にわずかではあっても生活環境が異っていたためかも知れない。ともに石鏃をもった狩人で、木の実もまた重要食料であった。漁撈活動を主とした東京湾岸や利根川下流域の繩文草期人と異なり、内陸の繩文人は移動が激しかったのではなかろうか。それが住居の構造の上に表われたと理解される。
 林ノ上遺跡の南方二百メートルの地点で、田戸式土器が和田哲氏によって採集されている。この時期の人々が集落を形成したかどうか、判然としない。