胎土に繊維の含まれている繩文式土器は早期後半から前期前半の土器に限られている。土器形式でいえば、早期の田戸上層式・茅山式、前期の花積式・関山式などの繩文式土器で、尖底から平底土器への移行・発展期に当っている。
この期の土器が発見された地点として、松原上・拝島第三小学校付近・林ノ上が茅山式、啓明学園校内が花積下層式の四地点を指摘できるにとどまっている。
昭島市域は撚糸文土器時代初期以後、この繊維土器の時代の間、無人の時期であった。その空白期間は実際の年数で数百年にもなるであろうか。昭島夏島人についで昭島人となった人々は茅山式土器をもっていた。彼らは昭島市域の立川段丘崖線にそった西端部・松原の地域に集落をつくったと思われる。林ノ上遺跡発見の茅山式土器は二、三片にすぎず、松原上の昭島茅山人の製作によるものと思われる。
松原上の地域は住宅密集地と化してしまい、遺跡の状況など全く不明で、調査はもちろん、土器の分布範囲も明確ではない。拝島駅前から拝島第三小学校にかけての立川段丘崖線にそって茅山式土器が発見されたことは、この地域に集落の営まれたことを示していよう。林ノ上遺跡に連続する崖線で、湧水があり、居住地としてはよい条件をそなえていたと思われる。
昭島茅山人の集落規模は小さく、人口も少なかったであろう。石器には環状石斧、石槍、打製石斧などが発見されており、生活状況はほとんど夏島人と変らなかったと思われる。しかし、茅山人は前期に盛行した繊維土器を発展させたことからも、早期的生活状況から脱却しはじめていたことは明らかで、その点では昭島夏島人と同様の立地を選んだ昭島茅山人は遅れていたといえるかも知れない。
啓明学園校内で発見された花積下層式土器は数片にすぎず、そこは拝島段丘崖線上で、集落を営むには決してよい条件ではなかったと思われる。拝島段丘におけるローム層の発達は見られず、黒色土層もわずかで、当時は荒地ではなかったと想像される。啓明学園校内発見の土器は他の地点から運び込まれたものであろう。それは花積下層式の時代であったかも知れない。
繩文時代前期の昭島市域には、繩文人は居住しなかったと理解してよい。昭島市域の食料はある一定の人口と期間をこえてまで支えるだけの量をもっていなかったと理解しないかぎり、このような繩文時代の生産手段では漁撈活動をともなわない生活による定住は許されなかったのであろう。