西上遺跡第1号住居址土器出土分布
竜津寺東遺跡は中期から後期にかけて形成されたもので、和田哲氏の調査によって五領ヶ台式・勝坂式・加曽利E式・称名寺式・堀ノ内式・加曽利B式の繩文式土器が発見されており、また敷石住居・配石遺構が偶然の機会から発掘されている。石器には石鏃・石錘・石棒・打製石斧などがあり、中期初頭から後期半にかけて連続して形成された集落址であることを示している。
広福寺台遺跡においても中期~後期の土器が採集されており、竜津寺東遺跡と同種のものと思われる。しかし、両遺跡とも出土する土器量から推定される集落の最盛期は勝坂・加曽利E式期にあり、竜津寺東遺跡の称名寺式土器は和田哲氏がわずか一個の完形土器を発見したにすぎない。
西上遺跡は学術的な発掘調査の実施された唯一の繩文中期遺跡である。調査は昭和四三年・昭和四四年・昭和四八年の三次に亘って和田哲氏が行なった。その結果は『西上遺跡--繩文中期文化の研究--』として昭島市教育委員会から発刊されている。これによれば、西上遺跡から発見される繩文中期の土器は五領ガ台式・勝坂式・阿玉台式土器で、遺跡形成の中心は勝坂式にある。土器の外に、土器片を利用して作った土製円板と土偶頭部がある。石器は打製石斧の量が著しい。短冊形が多く、撥形・分銅形打製石斧もあり、石匙、石皿、石鏃、凡字形石器が出土している。住居址は三基で、円形の平面形を呈し、中央に石組があり、そこへ土器を埋めて作った炉がきられている。配石遺構も発見された。
西上遺跡出土打製石器
西上遺跡出土縄文式土器
西上遺跡出土縄文式土器
西上遺跡の性格について、和田哲氏はその報告書で「漁撈的生産活動の片鱗すら窺い得ない」としながらも、「澱粉質食料の加工、中期の集落発展へと短絡的に結合させるのは疑問」と述べている。
昭島市域のほとんどの繩文時代中・後期遺跡は、西上遺跡のように形成期の中心が勝坂期にあり、勝坂人の特徴は打製石斧を多量に製作・使用していたことで、土掘り具としての打製石斧による生産活動が昭島繩文時代の繁栄をもたらしめたと理解される。その後における打製石斧の量的衰退は根茎類植物食への依存度が後退したことを意味しよう。
後期に入ると遺跡数は減少し、竜津寺遺跡、広福寺台遺跡、林遺跡、熊野神社東遺跡などで、発見される土器は少なく、集落規模は前代よりは減少したように思われる。昭島市域におけるこの期の調査例はなく、実態を把握しにくいが、食料の中心はイモ類ではなかったかと思われる。集落は中期から連続して営まれ、後期土器の出土状況からは重複しているようである。すなわち、西上遺跡などは例外として、中期に集落の営まれた地域は後期になっても生活環境として好条件をそなえていたものと推定される。
多摩川下流域や東京湾岸など漁撈活動を主とした地域では、後期前半というのは繩文時代を通じて最も繁栄した時期である。昭島市域のように漁撈活動の不活発な地域では遺跡からみた人口は後退している。それは内陸部で生活していた人々が海岸部へ移動していった結果ともいえようが、勝坂期に得られたような量の食料はその後の昭島人には得難くなったことは事実であろう。