昭島市域における後期後半から晩期の遺跡は極めて少ない。この期のものとしては竜津寺東遺跡の東部地域で、和田哲氏が安行ⅢC式土器を採集しているにすぎず、集落が形成されたかどうか疑しい。昭島市域の繩文時代集落は後期の加曽利B式期をもって終っているといえよう。
昭島市の繩文中・後期の遺物に認められる漁撈活動は決して盛んなものとはいえない。また、石鏃の出土量から推定される狩猟活動は早期以降繩文時代を通じてほぼ同程度であり、従って昭島市域の植物食の資源が涸渇しても、それに代る食料は極めて得難い状況におかれていたものと考えられる。多摩川の魚類も、昭島市域の野獣も豊富ではなかったのかも知れない。狩猟・漁撈・植物採集に食料を依存していた昭島繩文人は、それらの資源が時の人口を支えられなくなると、集落は分化して縮少し、あるいはまた移動していったものと思われる。
繩文時代後期後半から晩期は東北地方を除く日本列島の全域で、繩文文化が急速に衰退していった時代であり、昭島市域もその例外ではなかったのである。昭島市域は新しい生産社会を迎えないかぎり、自然資源は人々の居住を許さないほど荒れてしまっており、加曽利B式期以後は無人の地域と化した。水稲耕作をもった弥生社会の存在も昭島市域では認められない。再び人々の居住が始まるのは古墳時代に入ってからであり、畑作の普及が昭島市域の居住を可能にしたのではなかろうか。