西上遺跡配石遺構
配石遺構は秋田県の特別史跡大湯環状列石に代表される河原石を主として縦位置に配列して構成されたもので、東日本地域に広く分布している。これに対し、敷石住居は関東西南部から中部地方にかけての地域を中心に分布しており、平たい河原石を平らに敷いて円形をつくり、中央に炉を設けた遺構である。どちらの遺構もまだ十分に解明されていないが、敷石住居は繩文人が常時居住した家屋址ではないことが指摘されており、特殊な遺構であることは間違いなく、敷石住居の形成は繩文時代中期から後期前半に集中している。配石遺構は後期から晩期にかけて盛行し、分布域もその時代も配石遺構とはずれている。したがって、同じ河原石構築の遺構ではあるが、両者の意義は異っているものと思われる。配石遺構ではしばしば墓壙をともない、死者の埋葬が行なわれている。また、配石の構造は千差万別である。敷石住居の配石状況は一定していて、埋葬施設や常住の家屋として利用された積極的証拠は得られていない。
敷石住居では繩文人が一時的に火をもやした跡があり、それは何らかの目的をもった行為であったと想像される。敷石住居からは煮炊き用の土器は発見されず、炉の設置は食物の煮炊きのためではなかった。生活以外の繩文人の行為は呪術的・祭祀的内容をもったものではなかったかと推定される。それらの行為は終局的には集落の安全と繁栄を目的としたものであったろう。敷石住居は集落にたくさんは必要とせず、一時期に一基で十分であったと思われる。今日、集落址から複数基発見された場合は、いくつかの時期が重なったためで、敷石住居は何かの理由が生じると、次々廃棄されたと理解される。
敷石住居の分布域のなかで、多摩川本・支流域は最も濃密に分布する地域といえる。そして、海岸部より内陸部に多く、それは敷石住居がこの地域で発生したことによるかも知れない。しかし、繩文中期から後期という敷石住居形成の時期が、多摩川流域の繩文文化盛行期に当り、その一致は決して理由のないことではなかろう。なぜ内陸部に多いのか、なぜ祭祀場を石敷きにしたのか、敷石住居に対する謎の解明は今後に期待されるところが多い。