日本列島では死者の埋葬は繩文時代初期から知られている。愛媛県上黒岩岩陰遺跡などからは初期の屈葬人骨が発見され、早・前期の遺骸埋葬法は足を折り曲げて葬る屈葬のみで、全国的である。長楕円の竪穴に屈葬されたものもあり、この葬法は繩文時代を通じて行なわれた。甕棺葬は前期から行なわれ始め、中期になると人が寝た状況で葬る伸展葬や埋甕など新しい葬法が加わった。竪穴住居の入口床に幼児骨を入れた甕を埋める埋甕の葬法は、多摩川流域などの南関東地方から中部地方に多く認められる。廃棄された竪穴住居に埋葬された遺骸は貝層にうずまり、そのため人骨の保存がよく、一つの貝塚から数十体の人骨が発見される。愛知県吉胡貝塚では総計三三七体もの人骨が発掘された。
繩文時代の葬地は集落に近接している。住居跡が墓に利用されても、その地域が再び集落となりはしなかったようである。このことは繩文人が死後の世界を肯定していたところに理由があると思われる。死は消滅ではなく、霊魂となって存在しつづけ、墓域をその存在領域としていたため、繩文人は生活条件のよい地点でも、墓域となってしまった台地については侵すことはなかった。死者に石をのせたり、頭に甕をかぶせたりするのは、悪霊が集落を侵さないようにとの工夫であったろう。死者の領域と生者の領域とは互いに侵してはならないものであった。
悪霊をとじこめるという繩文時代の葬法には、遺骸の頭胸部へ赤色顔料を大量に施す方法もあった。これは北海道・東北北部の繩文晩期に流行し、まもなく消滅した風習であるが、秋田県柏子所貝塚の埋葬人骨は赤色顔料(ベンガラ)が厚い所で四~五センチにも達していた。同じ頃、この葬法は北部九州でも起り、九州の施朱の風習は弥生時代へと継承され、古墳時代になると全国に波及し、再び東北地方にも現われた。