金属器時代は紀元前三世紀に始まり、紀元後三世紀に終る、その間約五〇〇年を呼んでいる。北部九州地域の繩文社会が大陸文化の影響を受けて変化し、その波はまもなく西日本全域を覆い、その後は関東から東北地方にまで及んだ。このような金属器時代の社会を一度に説明することは離しく、そのため前期・中期・後期の三時期区分を行ない、発展過程をあとづけている。前期は紀元前三~二世紀、中期は紀元前後の一世紀、後期は紀元後二~三世紀をおよそ当てている。
三時期の区分は前代の新石器時代と同じく、日本列島の全域から普遍的に出土し、そしてたえず変化してきた土器を標式として行なわれている。弥生文化の時代の土器は弥生式土器と呼ばれる。これは現在の東京大学構内で、明治一七年にはじめて発見されたため、当時の町名「本郷向丘弥生町」にちなんで命名されたものである。この土器はそれまでに知られていた大森貝塚出土の土器とは異なり、表面は滑らかで堅牢なものであった。文様にも特徴があって、繩目文様に代って、表面の白地が増えた。頸部に円形付文があって肩部に細い繩文がつけられている。
弥生式土器の形は貯蔵用の壺、煮炊き用の甕、飯の盛りつけ用の鉢・高杯で、繩文式土器の器形と著しい違いが生じた。土も選ばれてきめ細くなり、製作する上でも器壁を板でたたきしめたり、表面をヘラで磨くなど繩文式土器には一般にみられなかった技法が取り入れられた。