三 金属器文化の時代

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 大陸文化の影響を受けて、日本列島においても食料生産社会に突入した。九州西北部地域繩文時代晩期は黒川式・山ノ寺式・夜臼(やうす)式土器の三時期に大別され、晩期初頭の黒川式土器の段階ではいまだ繩文式土器の色彩を濃く残しているが、山ノ寺式土器では壺・甕・鉢・高杯の農耕社会の弥生式土器に特有な器形が形成され始め、終末の夜臼式土器は最初の弥生式土器である板付Ⅰ式土器と多くの遺跡において一諸に出土しており、繩文社会に大陸文化の導入されてくる様相を知ることができる。研究者によっては夜臼式土器を弥生時代に加えて考えようとしており、山ノ寺式では新しい要素が出現しつつも遺跡はほとんど山地など高台であり、石器の上でも繩文時代のそれと変化がない。しかし、大陸文化はこの時期頃から入り始め、夜臼式土器の時期でははっきりと新しい時代に入ったことを示した。大陸の石器に共通する蛤刃の磨製石斧、有孔磨製石庖丁、剣形の磨製石鏃など新しい石器が前代の石器を凌駕し、その上熊本県斎藤山貝塚の夜臼式土器・板付Ⅰ式土器を出土した貝層から鉄器が発見されている。九州西北部地域においてこの時期に属する遺構からの鉄器の出土は少なくない。しかし、繩文晩期終末または弥生前期初頭での青銅器の発見例は今日のように遺跡発掘が多くなった段階でもないので、鉄器は青銅器よりも早く大陸の新しい石器と共に九州へ渡ってきたことを知るのである。
 繩文時代終末期のこれら新しい要素は稲作の開始を示している。米そのものは繩文式土器底部などに圧痕を残していたとして、繩文時代に米の存在を報じられるが、栽培稲の米かどうか疑念が多い。米の圧痕は夜臼土器にも見受けられ、佐賀県宇木汲田貝塚の夜臼式土器を出土した貝層から炭化米が発見され、福岡市有田遺跡でも夜臼式土器とともに多量の炭化米が出土している。繩文時代終末には西北部九州において稲作が開始されたことを知るのである。
 弥生時代初頭の板付Ⅰ式土器とともにあった繩文土器の夜臼式はまもなく消滅し、板付Ⅱ式または立屋敷式と呼ばれる土器の時代に入る。この系統の土器は一般に遠賀川式と総称されて、瀬戸内の中山Ⅰ式、畿内の唐古第一様式、東海地方の西志賀Ⅰ式や二反地Ⅰ式などが含まれている。遠賀川式の弥生式土器はヘラ描きによる羽状文・重弧文・木葉文、貝殻の腹縁による貝殻文を特徴としており、とくに木葉文は畿内を中心に発達し、九州では博多湾岸とその周辺地域に認められるものである。木葉文の伝播にみるように、弥生時代前半にはすでに畿内での独自の動きが注意される。石器の種類は板付Ⅰ式土器の時期と変りなく、石庖丁の形態は定形化する。
 遠賀川式土器そのものは神奈川県小田原や東京都新島、長野県飯田市の栗林遺跡などで発見されているが、これらの地域に遠賀川式土器文化をもった人々が住んでいたものではない。遠賀川土器文化、すなわち最初の農耕をもった人々の集落は西志賀Ⅰ式や二反地Ⅰ式土器の範囲までにとどまっていると考えられている。
 西北部九州では前期後半の土器は下伊田式と呼ばれるものである。それは前期を特色づける遠賀川式土器に中期的特徴を加えた形態を示し、弥生時代九州の最も繁栄する中期の到来を暗示している。また、カメ棺に舶来の青銅製武器の副葬が開始されるのもこの時期からである。福岡県板付遺跡のカメ棺から細型銅剣三本、細型銅矛三本が出土している。
 弥生時代中期後半から後期前半は青銅器の時代である。この時期の土器は九州では須玖式、畿内では唐古第三様式に代表されるが、遠賀川式土器が西日本から伊勢湾地方にわたる広い範囲に分布したのに対し、中期の土器は九州内においても地域性が顕著に現われ、関東地方にも弥生式土器が出現した。
 この期の九州地方の土器は一般に須玖式土器の特色となっている全体素地のなかに突帯をもち、大形なのに対し、畿内を中心とした周辺の土器は櫛描文と凹線文を特徴としており、土器文様の発展は明瞭な相違を見せてきた。この違いは日本列島内で鋳造された青銅器祭祀にも現われているといわれ、九州地方には祭器化した武器(銅矛・銅戈)と畿内を中心として東日本も含めた広い地域に銅鐸が分布している。
 弥生時代における中期の発展はめざましく、日本列島の一部では、中国の史書『漢書』地理志に「分れて百余国、歳時を以って来り献見す」と記されているように、農耕社会はついに小国家を形成させ、青銅器をはじめとする豊富な副葬品を埋納するカメ棺が出現し、『後漢書』東夷伝では「建武中元二(五七)年、倭奴国奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以ってす。安帝永初元(一〇七)年、倭国王師升等生口百六十人を献じ、請見せんことを願う。」という王も現われた。日本列島の小国家の王は積極的に対外関係を結び、大陸の文物を請来し、原料として入手した中国製の青銅武器は鋳造し直して銅鐸をはじめとする祭器を作った。
 小国家の王はカメ棺に埋葬された。カメ棺による埋葬法は早くから知られ、須玖式土器の段階に入ると、百基余の、カメ棺を含めた弥生墓群が九州北西部で知られる。九州弥生墓は合口のカメ棺、箱式石棺、組合せ木棺、土壙などからなる集団墓で、福岡県伯玄社遺跡、福岡県金隈遺跡、福岡県亀ノ甲遺跡、佐賀県宇木汲田遺跡などが代表例としてよく知られている。これらの集団墓のなかにおいて、銅矛、銅剣、銅戈、銅鉾、玉類などのいずれかを副葬品や着装品として持っているカメ棺もあり、集団墓のなかでひときわ目立つ存在である。福岡県三雲で三五面、須玖で三〇面以上、立岩で六面の前漢の銅鏡を副葬したカメ棺が発見されており、それらのカメ棺内部は朱で真赤であり、ときには高さ一メートルに近いカメ棺の三分の一位が朱でつまっているものも発見されている。
 カメ棺は支石墓と組合わされ、土壙や石棺に代って支石墓の主体部となることもある。支石墓はすでに繩文晩期の夜臼式土器をともなうものが知られ、九州西北部で繩文社会に取り入れられた朝鮮南部の墓制で、この地域に主として分布している。
 畿内を中心とした瀬戸内から東日本の弥生墓は方形台状墓・方形周溝墓とよばれ、どちらも方形に区画されたなかに組合せ木棺、カメ棺を埋納するものである。方形周溝墓は大阪池上遺跡において前期に属するものが発見されており、畿内とその周辺地域で発生、そして発達したもので、九州のカメ棺のように顕著な副葬品はなく、遺骸に朱を施すことも行なっていない。
 木棺や土壙は方形台状墓・方形周溝墓とは別に単独でそれぞれ墓群を形成することもあり、大阪勝部遺跡や安満遺跡では低地であったために木棺そのものが残っていた。これら弥生木棺墓の一部には遺骸の頭胸部に当る位置に朱が発見されたものがある。すなわち、九州繩文時代に始まった遺骸に朱を施す風習が、弥生中期の半には大阪湾岸にまで達していたことを知るのである。