九州繩文後晩期は人口増加と海岸線の後退など自然環境の変化によって採集経済のゆきづまりをきたし始め、新しい食料の開発が不可欠な状況下にあった。紀元前三世紀頃、九州西北部地域に朝鮮半島南部をへて種籾・農具・栽培技術が背の高い人々によって伝えられた。海岸が後退して生じた湿原は繩文人にとって不毛の地帯であり、それに対し背の高い人々はその湿原を生活の場とし、勇敢に湿原を水田化していった。彼らは鉄器や新しい石器で木製農具を製作し、水稲栽培を行なって豊かな生活を営み、高台に住む九州繩文人達と積極的に混血していった。彼らは弥生人として農耕社会を形成し、繩文社会に終止符をうった。
弥生人の人口は九州北部を中心に急激な増加をみ、その結果可耕湿原を求めて東方へ移動する人々もあり、当時採集経済にゆきづまっていた畿内とその周辺の繩文人にも新しい食料生産の方法は円滑に取り入れられた。このことは九州の遠賀川式土器が京都府北部から伊勢湾にいたる地域にまで急速に広がっていったことによって知られる。しかし、その東北方の関東を含めた地域はなお繩文時代であった。
この頃の水稲農耕は次のようであった。水田は海退したあとの河川などの氾濫原の低湿地に矢板や杭を打ち込んで作られ、平鍬・万能鍬をもって代作りが行なわれて直接種籾がまかれた。田植はまだなかったのである。作っておいた堆肥の水田への施肥は、おそらく播種以前に、また除草も稲の間をぬって行なわれたであろう。水稲の生育には豊富な水を必要とし、湿田は最適で、その時期の除草は比較的楽であった。しかし、稲が水を必要としなくなった段階でも水は少なくなかった。収穫は稲の根元から刈り取ることをせず、石庖丁で穂を摘み、たばねた。脱穀の状況は明らかではない。やがて籾は臼の中に入れられて杵でつかれ、籾殻が取り除かれた。同じ臼で精白も行なわれたであろう。このような状況は水稲農耕が開始されて以後、弥生中期までつづいたと思われる。
弥生人の食生活の基礎は米になった。以来日本人は米を主食として生きつづけてきたが、たとえそれが栄養豊富な完全食であっても、米のみでは生きられない。繩文人の主として食べていたものも弥生人は捕獲していた。猪や鹿は依然として主要な蛋白源であったし、海や河川湖沼の魚類・貝類もまた彼らの食生活に欠かすことのできないものであった。石鏃・石槍は集落間の争いに武器として利用されただけではなく、重要な狩猟具であった。魚捕りには網やモリ・ヤスが利用された。
弥生前期の集落は低湿地の微高地や河川の自然提防に営まれ、住居はもちろん繩文時代と同様の堅穴式であった。集落の状況は分っていないが、中・後期のような大規模なものではなく、水稲耕作では一時期の労働集中を必要とするが、それを効果的にまかなえる数戸の集落ではなかったかと考えられる。