西日本における水稲農耕の定着によって貧富の差が生じ、紀元前一世紀頃には小国家も誕生し始め、多くの労働集中が可能となり、鉄製農工具の普及も手伝って、可耕地である低湿地の開発をしつくすと水利の悪い土地にも開墾がすすめられた。矢板・木杭を打って水路を作り、水を引き、あるいは排水して水田を作った。こうして湿田に加えて乾田が生れ、この時期以後乾田の面積が湿田をうわまわった。木製農具の形状は前期と変らないが、鋤・鍬に鉄製刃がはめこまれ、農耕は容易にそして能率的になった。堆肥作りも積極的になり、水田は肥え、多くの農業技術の改良もあって生産性は向上した。前期では直播きであったものがこの時期には苗代をつくって播種し、苗をそだて、田植が始まったと考えられている。また、石庖丁による穂首摘みに代って鉄製鎌による根本から刈り取ることが行なわれた。したがって稲わらも積極的に利用されたであろう。しかし、九州ではなお鉄庖丁による穂首摘みも行なわれていた。高床の貯蔵倉庫もこの頃から現われ、米は穂についたまま保管された。弥生時代中期には日本列島の水稲農耕の原形ができあがり、耕作農具は当時の形状そのままのものが今日までつづいてきたと云ってよい。
食料生産の向上は人口増加や小国家の統合も引きおこすようになった。集落は自然堤防のあちこちに営まれ、洪積台地にも営まれるようになる。台地下の谷間の湿地も水田化され、山間部にも弥生人は進出した。集落の周囲には大きな深い溝をめぐらして外敵を防ぎ、集落の結束をかためた。
人口増加による開田は水争いや土地争いを集落間にひきおこした。山口県土井浜遺跡の一二四号人骨は胸部から腹部にかけて一三本の矢を受けていた。大阪府勝部遺跡では第二号木棺墓に埋葬された死者は五本の矢を受け、そのうちの二本は腰骨と肋骨にくいこみ、また第三号木棺墓の遺骸は胸部に槍がささっており、おそらくこれらの弥生人は争いによって死亡したものと思われる。集落間の争いでは女性も犠牲になった。長崎県根獅子免遺跡から頭部に銅鏃の矢を受けた女性人骨が発見されている。このような争いはより強い集落を生み、敗北をきっした集落は強い集落に統合されていった。
西北部九州から瀬戸内・畿内に亘る地域では集落の統合から小国家の統合が強力にすすめられた。高地性集落と呼ばれている一〇〇メートルも高い場所に営まれた集落は、争いの様子を示すものとして理解されている。石製武器の生産は畿内南部地域でとくに活発で、鉄製武器も争いに利用された。
高地性集落は瀬戸内・畿内に分布し、その立地は水田耕作におよそ不便であり、争いにおける低地集落やその水田の防衛上の目的をもった軍事的施設であった。多くは弥生時代中期後半に出現し、この時期が集落統合の一つの頂点を示している。