水稲農耕の発達によって年間を通じ主食料が米となり、米飯のための各種生活用具が発達した。九州西北部で農耕が取り入れ始めた頃に、すでに貯蔵用の壺、煮たき用の甕、盛りつけ用の鉢・高坏が出現したことは前述した。この農耕社会における土器の基本形はその後も永くつづいた。
高床倉庫が出現する以前の穀物は壺に入れ地下に袋状に掘った穴倉に貯蔵された。集落の近くに穴倉をたくさんつくり、穀物の出し入れには梯子を使用したらしく、二メートル内外の深さを有している。高床倉庫では稲穂をそのまま保管し、貯蔵用の壺は穀物、木の実、果実、飲料水などの日常的飲食物の一時的保管に利用され、前期の壺が西日本全体で大きな変化がないのに比べ、水稲農耕の発達したこの時期には、地域性を強くもつようになり、大小の変化に富み、用途に応じた器形が選ばれた。物の運搬に利用されたり、井戸水をくみあげ、また汁を注ぐ役割をもった壺も発見されている。
甕は表面にすすのついたものや内部に米の焼けこげを残したものが発見されているので、穀物などの煮たきに利用されたことは明らかで、ときには底に穴をあけた甕を上にのせ、下甕内の水を沸騰させて、上甕の米をむすこともあった。しかし、多くは米を煮て食べていた。
食膳具としては鉢や高坏がある。この時期には器台とよばれる壺をのせる台状の土器も加わるので、壺の一部には食膳具に変化したものもでてきたと考えられる。小形壺には把手や注口をつけられたものも作られ始め、汁などを注ぐのに利用された。高坏は米飯の盛りつけや汁器として、またその他の食物を盛りつけるのに使われた。
弥生時代中期は木器の発達も著しい。土器で用をたすことのできる鉢・高坏・〓・把手付壺(ジョッキ)・片口はサクラ・ケヤキ・クワなどの木材を刳り製作した。高坏は坏と台部とを別々に作って上下を合わせるなどの高度な技術や永い経験を要する木の取り方・製作を行なっている。汁をすくう杓子にも縦に使うものと横位置で使うものの別があり、匙も製作使用されている。これらはいずれも食膳具の一種で、食生活の多様化を物語っているといえよう。
弥生時代の水稲農耕は木器なくしては成立しなかったといえるほど多種類のものが製作されている。杵・臼はもちろん木製であるが、後に鉄製に変っていった鋤・鍬・万能・えぶりなども木製で、今日の開墾鍬や唐鍬に類似する形態の鍬、またスコップやフォーク様のもの、先端が平らで狭身の鋤などがあり、用途によってそれぞれ使いわけている。すなわち、鋤・鍬は開墾用と農耕用とに分れていた。これらの農具を製作した木材には種々のカシを利用した。かたい木材とはいえ、木材は用途に応じどのようにでも作り変えることができ、鉄製農具が普及した時期でもなお木製農具の一部は残っているのである。