三 青銅器の終焉

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 日本列島における青銅器の鋳造は弥生中期に始まり、高さ一メートルをこえる大きな銅鐸や銅鉾は弥生後期になって鋳造された。銅鐸は時期判定のできる土器などが一諸に発見されず、また単独で山腹に埋納されていることが多く、祭器として使用された正しい時期は分らない。研究者によっては一部の銅鐸は古墳時代のはじめまで下がると考えたりしている。銅鐸は瀬戸内から近畿、静岡西部の各地で地域的な特色をもったものが鋳造され、またそれぞれの地域で埋納された。
 集落では地域特有の銅鐸をもち、村の象徴としていた。ある集落ではかなり以前に入手した銅鐸を次々と伝えて祭祀に利用しているかと思えば、他の集落では当時流行の文様形式の銅鐸を入手し、同じ時期に古い銅鐸と新しい銅鐸とが使用されていた。農耕社会の発展によって権力をもった支配者が現われ、村の統合がすすんでくると、村の象徴であった銅鐸は象徴としての意味を失なうことになった。そして、集落にとって銅鐸は不要の長物になりはじめると、今度は統合の象徴として銅鐸が集められた。古い文様形式の銅鐸も、新しいものも一諸になり、銅鐸はついに廃棄されてしまった。兵庫県桜ヶ丘では古新・大小一四個の銅鐸と銅戈七本が一つの埋納壙から出土した。また、滋賀県小篠原では明治時代に一四個、昭和三七年に一〇個、総計二四個もの銅鐸が埋納されていた。小篠原の銅鐸のうちには、最も新しい形式のものも含まれており、一括埋納された確かな時期は分らないが、弥生時代後期半ではないかと想像される。八王子市宇津木向原出土などの小銅鐸は銅鐸祭祀終焉後もなお伝世されていたもので、個人の所有物であり、すでに銅鐸としての祭祀的意味は失なっていたものと思われる。