一 弥生文化の波及

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 初期弥生文化の遠賀川系弥生式土器の分布は、愛知県西部から京都北部を結ぶ線の地域までで、それらの諸地域では水稲の生育に適した自然環境と肥よくな可耕低地にめぐまれた河川の下流域に、水稲耕作の急速な進展をみた。その頃、中部・東海・関東の東日本諸地域は繩文文化終末の亀ヶ岡文化下にあり、この文化は畿内の一部にまで及んでいた。関東での亀ヶ岡文化は安行式、前浦式、荒海式などと呼ばれる繩文土器文化であり、繩文文化盛期の中期との間には、遺跡数やその規模の上で著しい違いがあり、東国でも新しい生産手段の要求が高まり、採集経済のゆきづまりが始まっていたことを示している。集落規模の縮小は、人口の減少を意味し、集落数の減少は、集落の食料採集専従地域を拡大してもなお、集落の構成員を支えるだけの食料を獲得できなかった。
 遠賀川系弥生式土器の文化圏に接する東海東部地域には、その影響を受けて繩文土器のなかから条痕文土器という新しい土器が生れた。それは壺や甕の表面に粗い条痕を刷毛目のようにつけた土器で、繩文土器の系統に属する。愛知県ではこの土器が遠賀川系の土器と一諸に出土し、これを水神平式と呼んでいる。水神平式の弥生式土器は東日本弥生式土器の基盤となったもので、愛知県東部から静岡県・長野県伊那谷に分布している。水神平式土器の分布圏に接する南関東では、その影響のもとに堂山式や三ケ木式などの関東初期弥生式土器が成立する。それはおそらく紀元後一世紀の時期と思われるが、初期弥生式土器には繩文や磨消繩文、工字文など繩文式土器の手法が残っており、関東の繩文文化は人々の間に根強く伝統をもっていた。このことから、繩文文化のなかに新しい弥生文化が流入し、繩文的色彩の強い、西日本の弥生文化と異る弥生文化を成立せしめたといえよう。

関東地方弥生式土器編年表

 北関東の初期弥生文化は東国のなかで最も繩文的な文化である。条痕文土器は種籾や水稲技術をともなって繩文文化下の北関東にもたらされ、そこに弥生文化が成立した。しかし、茨城県下館の女方遺跡出土土器にみられるように、文様の主流は繩文であり、変形工字文・三角文・平行線文に晩期繩文土器文様からの伝統を認めることができ、壺や甕の胴下半部に条痕文が付された土器も出土している。
 関東のこの時期の遺跡は、土壙墓が知られているにすぎず、集落や、もちろん水田の実態は明らかではない。土壙は直径一メートル位の円形を呈しており、内部に数個の土器が埋納されている。土器には人骨を納め、そのため土壙は再葬墓といわれている。再葬墓群は台地にあって自然堤防や微高地に位置していない。これは関東の初期水稲農耕を考えるとき、重要な意味をもっているといえよう。