二 東国の水稲農耕

234 ~ 236 / 1551ページ
 東海地方に生れた条痕文土器とともに、水稲農耕は関東にもたらされた。当時の集落は稀薄で、飛躍的な展開は見せていない。繩文文化の段階にあった人々は、水稲農耕を受け入れたが、米が直ちに彼らの全ての食生活を支えることにはならなかった。集落は繩文時代以来の台地に位置していたし、その付近に再葬墓を営み、食料も採集にたよっていた。水田は河川下流域の可耕地や一部谷地に営み、規模は極めて小さかったと思われる。畑地耕作の可能性も強く、雑穀、果実、木の実も貴重な食料であった。水稲農耕が開始されても、繩文社会は続き、関東のなかに繩文的地域性が認められた。
 弥生文化の特徴の一つ、金属器の採用は一般的ではなく、道具は繩文文化の伝統をもった石器であった。したがって、農耕のための木器作製は不十分であり、谷地の開墾はすすまず、この状況は条痕文土器の時期がすぎても続いていた。しかし、繩文時代にはなかった布が織られ始め、被服には大きな変化が現われた。
 弥生時代中期後半を迎えると、遅れていた関東の社会にも変化が現われた。土器文様に繩文が用いられてはいるが櫛描文やヘラ磨きが行なわれ、磨製石器が使用されるようになった。関東・東北に特有な有角石器もこの時期から現われる。集落遺跡は谷地に面する台地にあり、その数は急増する。規模も大きくなり、関東でも本格的な農耕社会に入ったことを示している。
 水田は谷地田が多く、湿田であったといえよう。谷地田の水は冷く、土は必ずしも肥よくではなく、水田としては最適ではなかった。河川の氾濫原でも、水田は比較的氾濫を受けにくい台地下につくり、水は台地から湧出する泉を利用した。関東の水田の生産性は低く、米は主食料にならなかった。狩猟・漁撈は農耕社会でも盛んであり、貝塚が形成されることも少なくなかった。
 この時期になっても関東の水田址は明らかでない。集落の立地と弥生文化の受容の実態から推して、前述のような水田が考えられる。このような状況は西日本の水田とは相違しており、愛知県西部までに急速に波及した水稲農耕も、関東で農耕社会を迎えるまでにはかなりの年月を要した。その要因は、繩文文化の残存と地形による水田の制約にあったのではないかと思われる。