三 多摩川の弥生文化

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 多摩川・鶴見川下流域には、海退によって生じた低湿地が広がり、低地を望む武蔵野台地の突端は複雑に入りくみ、多くの谷地を形成している。今日、この地域は大田区・川崎市の市街地となって旧地形も判然としない状況である。多摩川の上・下流左岸の武蔵野台地には、多摩川支流の野川などの小規模河川が走る。これに対し右岸は丘陵の発達が著しく、浅川・川口川・谷地川・秋川・平井川などの比較的大きな支流が多数認められる。
 昭島は多摩川本流に面し、河岸段丘の発達が著しい。昭島には後述するように、弥生時代遺跡は発見されていない。多摩川に面する隣接の立川市や福生市も同様で、羽村町、国立市にも弥生時代の遺跡は認められていない。さらに、調布市・府中市でも多摩川本流に面する台地では、この時代の遺跡はなく、多摩川左岸の弥生時代遺跡は下流域の武蔵野台地(大田区・世田谷区)と野川流域(府中市・調布市)に限られているといえよう。青梅市の加治丘陵末端台地に遺跡はいくつか知られているが、多摩川とは切りはなして考えた方がよかろう。
 多摩川右岸の支流各河川流域には、弥生遺跡が多く、とくに八王子市には顕著な遺跡が知られている。谷地川流域の宇津木向原遺跡、浅川流域の椚田遺跡・船田遺跡・神明上遺跡・吹上遺跡、川口川の甲の原遺跡・中田遺跡・犬目境遺跡・鞍骨山遺跡、秋川・平井川流域の東原遺跡や秋川市平沢・二の宮付近の弥生遺跡などはよく知られた遺跡で、先土器・繩文時代以来営まれた時代の複合するものが多い。これらのなかでとくに宇津木向原遺跡は、全国で最初に方形周溝墓が確認された遺跡として記念的なものである。
 多摩川・鶴見川下流域の低湿地を眼下に望む武蔵野台地突端に、東国における最大規模の弥生遺跡、すなわち久ケ原遺跡が位置している。それは現在の大田区久ケ原五丁目と六丁目に当る。遺跡の北側には呑川が走り、谷地が発達している。住居址数千といわれるほど大規模な弥生時代後期の集落である。呑川流域には八幡神社遺跡や雪ケ谷遺跡があり、多摩川に面して嶺一丁目遺跡・将軍塚遺跡が知られる。
 野川は多摩川本流に世田谷区玉川で合流する支流で、この河川の流域には堂ケ谷戸遺跡・殿山遺跡・上神明遺跡などが知られる。
 以上のように多摩川流域の弥生時代集落は谷地をはさむ台地や河口付近の低地に望む台地に営まれている。それは水稲農耕が谷地や台地下端の低湿地に発達したためと思われ、谷地のない国立・立川・昭島・福生等の多摩川左岸中流域に集落の営まれなかったことも理解されよう。集落は久ケ原遺跡を除き、十数戸からなり、ときに二~三戸の場合もあった。これらの集落は弥生時代後期に属し、その初頭の久ケ原式土器の時期に始まる。それは二世紀半のことであり、鶴見川流域など南関東全域では、多摩川流域より一時期早く、一世紀後半の宮ノ台期から弥生人の活躍が認められる。
 多摩川流域の集落のなかで、久ケ原遺跡は他に例をみない顕著なものである。すべての住居址が弥生時代後期の単純遺跡で、推定住居址数千といえば、一時期に千人を優に越える人口を擁したであろうし、それだけの人口を支えるだけの生産性の向上や政治的な要請が生れていたとも考えることができる。永年、一貫してこの遺跡の調査研究を行なってきた菊地義次氏によれば、「高度な政治的要請がかかる大集団を形成せしめたもの」と理解しており、谷地田にたよっている東国の水稲農耕の実態からは、多摩川下流域の低地がこれだけの人口集中をひきおこすだけの生産力をもっていたとは考えられない。しかし、久ケ原遺跡の調査は全く不十分であり、千戸以上とか、数千戸という数字も調査した小部分からのあくまで推定であり、その実態は未解明のまま、今日の大住宅地となってしまった。