四 昭島の弥生文化

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 昭島市内における弥生文化はこれまでに見出すことができなかった。昭島市に居住して市内の遺跡調査を実施してきている和田哲氏によっても発見されていない。多摩川の中流域左岸には、前項でも見たように弥生時代遺跡は存在せず、上流の加治丘陵沿いに若干の遺跡が発見されているにすぎないので、弥生人の活躍はほとんどみられなかったといえよう。
 弥生時代の昭島は、おそらく雑木林におおわれ、多摩川はしばしば大氾濫をおこし、拝島段丘際まで洪水は押し寄せたであろう。野川流域や秋川・平井川下流域の弥生人は、昭島地域にまで動物を追ってくることもあったかも知れない。しかし、それは極めて稀なことであって、昭島は全くの未開地であった。
 昭島になぜ弥生人が居住しなかったのか。このことは東国の水稲農耕が谷地の開発から始まったことによって知られよう。谷地は激しい洪水の心配がなく、台地は居住に適し、谷地の開墾・耕作は比較的容易であった。そこは大規模な土木工事を必要とせず、冷水ややせた地味による生産性の低さは、採集経済によっておぎなわれた。昭島は多摩川本流に面し、谷地の発達はみられない。段丘の際も多摩川の水にあらわれ、水田をつくることはできなかった。東国の弥生人にとって、採集経済が食料の主要部分を占めていたとはいえ、米なくして彼らの生活はすでに成り立たなくなっていたのである。