一 東国の金属器

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弥生式土器(八王子市椚田遺跡出土)

 東国における弥生文化の展開は弥生中期後半の宮ノ台式土器の時期に始まり、金属器使用も開始された。東国内でも青銅器と鉄器の出現に若干のずれがあり、神奈川県赤坂遺跡、神奈川県神明上遺跡、千葉県菅生遺跡などから板状鉄斧とよばれる磨製石斧に似て柄を差し込む袋のない形の木工具が発見されている。これには片刃と両刃とがあり、赤坂や神明上社例は片刃で、片刃石斧を模したものと思われ、手斧として利用されたものであろう。東京都ケッケイ山遺跡からは削り工具の刀子、赤坂遺跡からはやりがんなが出土している。東国の鉄器はいずれも木工具で、その事例は決して多くはないが、鉄器導入は木製品加工に多種類の摩製石斧と合せて絶大な力を発揮したであろう。木製農具は弥生社会の発達に欠くことのできないものであったし、東国の谷地開拓をすすめる宮ノ台期弥生人にとっても、それは同様であった。
 鉄器に対すると、東国青銅器の発見は例外的である。青銅器そのものは弥生後期中頃にならないと現われない。それは鉄器導入から二、三〇年遅れてのことではなかったか。八王子市宇津木向原遺跡から上方に二つ穴のあいた何んの文様もない小形の鏡(素文の〓製鏡)が出土したことはよく知られ、弥生時代の小形〓製鏡出土遺跡としては最も東に位置している。この鏡は弥生時代後期も終りの時期に属し、東国の一部では古墳時代に入っていたのではなかろうか。また、神奈川県本郷遺跡出土の小銅鐸も、栃木県小山市田間発見の小銅鐸と並んで弥生後期の所産であり、最後の銅鐸といえよう。神奈川県諏訪ノ前遺跡からは銅鏃が出土している。古墳初頭の住居址からの銅鏃の発見例は少なくないが、銅鏃が日常的に使われた狩猟具とは考えられない。
 このように東国の青銅器は珍らしく、弥生人にとっても珍品としての意味しかもたなかったのではなかろうか。弥生文化は確かに金属器の文化ではあったが、東国のそれを金属器と呼ぶには貧弱すぎるものといえよう。