一 東国の水稲文化

245 ~ 245 / 1551ページ
 水稲農耕が東国に波及し、農耕の開始は東国の文化を大きく変え始めた。繩文文化に新しい要素が加わり、宮ノ台式土器の時期には繩文文化の色彩はほとんど払拭されてしまった。水稲文化は短期間のうちに定着したのである。
 水稲農耕は古代東国人の生活様式に影響を与えた。弥生人の住居は竪穴式住居ではあったが、被服は自分達で織った布でつくり、土器は甕・壺・坏(高坏)の基本に統一され、工具は各種の磨製石斧に若干の鉄器が加わり、著しい木器の発達をみせた。木器の大部分は鍬を中心とした農耕具であり、居住には水田を営む谷地に面した日当りのよい場所が選ばれた。弥生後期の久ケ原遺跡のように千軒にも達する大集落も営まれ、高床式の倉庫も加わってくる。
 昭和五二年、平安時代の水田址を掘りおこし、弥生時代後期の水田址が群馬県日高遺跡で発見された。水田址は弥生時代末から古墳時代初めにかけて降りつもった火山灰に埋没しており、当時そのままで、谷地田の実態を明確に把握できた。