一 再葬墓と人面土器

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 関東地方に水稲農耕が入ってきたとき、それは条痕文土器をともなっていたことはすでに述べた。種もみを東国へ運んだこの土器は東海から関東地方に分布し、関東繩文社会を変容させ、やがて弥生中期後半の宮ノ台期における発展を迎えさせた。この頃の関東地方の葬制は、土葬または風葬によって遺骸を白骨化させた後に、条痕文土器などの壺に入れて再び葬るという仕方であった。茨城県の女方遺跡・海後遺跡・小野天神前遺跡、栃木県出流原遺跡、千葉県天神前遺跡は代表的再葬墓である。この種の遺跡は栃木・茨城・福島の北関東から東北南部に多く、多摩川流域ではまだ知られていないが、この地域の弥生中期社会でも再葬の風習下にあったものと思われる。
 再葬墓は直径一メートル内外の円形土壙に骨を入れた壺が数個埋納されているもので、土壙は茨城県女方遺跡のように四〇基余にも達する集団を形成していることもあり、再葬墓はほとんど集団墓で、一個の壺に人骨一体分・一土壙に二~三個の土器という計算をたてれば、一遺跡に少なくとも数十人が埋葬されていたことになる。また、特別な副葬品もなく、皆同じように埋葬されていたことから推察すれば、彼らは共同で農耕を行なうかたわら、狩猟・漁撈・木の実採集を日常の仕事としていた弥生人化した人々で、権力をもち他の村人を支配するような弥生人はまだ生れていなかったといえよう。人骨の埋納には大小の壺が利用されたが、それら壺のうちに人面を付けたものが発見されている。とりわけ、茨城県小野天神前遺跡では三個の人面土器が出土し、そのうちの二個は一つの土壙に埋納されていたもので、これまでに例のないことであった。三個の土器の人面・土器文様とも同様式をもっており、同一人の製作によるものではないかとさえ思われる。人面土器は女方遺跡・海後遺跡・出流原遺跡でも出土しており、神奈川県横須賀市のひる畑遺跡、横浜市の上台遺跡では弥生後期に属する住居址から発見されている。ひる畑遺跡出土人面土器の人面は土器に目鼻を付けたのではなく、人面の輪郭をととのえ、写実的に造形している。この点では千葉県市原市郡本出土の宮ノ台期の人面土器に最も類似している。上台遺跡の人面土器も顔面部は特別に造形し、女方遺跡例などに代表される再葬墓出土人面土器とは異なっている。両者の造形上の相違はこれら中期後半から後期の人面土器の出土地が再葬墓でないことと関係あるのかも知れない。宮の台期は関東弥生社会の発展期で、集団墓としての再葬墓の衰退期に当っており、人面土器が弥生再葬墓と共に出現してきたことからすれば、宮ノ台期以降の人面土器は土壙以外の遺構からの出土が当然という理解もできよう。東国ではこの頃に方形周溝墓が出現してくるのである。