三 再葬墓の社会から方形周溝墓の社会へ

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 種もみとその栽培技術を手に入れた東国の繩文人は、わずかばかりの水田で水稲耕作を開始した。彼らの集落立地は繩文時代と変ることなく、食料も木実採集や狩猟・漁撈によるところ大きく、繩文時代の習俗が強く残っていた。集落では、食料その他得られた物資は平等に分配され、権力をもって村人を指導する者もなく、村人の間から選ばれた者や長老などが共同作業を企画し、皆同等に働いていた。村から死者が出れば、死者を所定の安置・埋納場へ移動し、白骨化するのを待った。かなりの日時、年月がたち、白骨となってしまうと、そのすべてを洗骨し、一体分の骨は一つの壺に納め、数個をひとまとめにして土壙に埋めた。幼児の骨は人面土器に納めることもあった。
 やがて水稲耕作は次第に拡大し、彼らの米への依存度が高まるにつれ、西方の新しい道具・技術を積極的に導入しようとする動きがでてきた。可耕地を求めて移動しはじめた集落もあり、一方では以前からの再葬墓域へ死者の骨を壺に納めて埋葬している集落もあった。新しい石器や鉄器が入ってきて、木製農具が急速に普及すると米の生産性は向上し、谷地開拓が積極的となり、ほとんどの集落は可耕地を求めて移動した。米の生産性向上によって集落に貯えが生じ、また村人の間でも貯えのある者とない者がでてきた。それによって、集落の指導的立場にあった村人が権力をもちはじめた。まもなく権力をもって村人を支配する者が誕生し、埋葬に当っても彼らは特別扱いとなった。このような弥生社会が東国に出現した頃、西方から新しい葬法が伝来し、さっそく取り入れられた。それが方形周溝墓で、それは東国弥生社会の変容を意味している。方形周溝によって区画されたなかに、木棺に納めて埋葬された者は明らかに他の村人とは階層的な相違を示している。彼らのなかには玉類を副葬される者もあり、ほとんど祭祀に用いられた壺や高坏などが埋納された。それらの土器は周溝内に置かれたこともあったが、多くは周溝内側上端に並べられた。
 方形周溝墓は弥生後期になると東国各地に出現し、他方一遺跡における数も増加した。それらは集落の階層分化が激しくなったことを示しているといえよう。また、集落間の隔差も著しくなった。東国の方形周溝墓はますます発達し、弥生末期から古墳時代前期の時期に盛行をみたのである。