二 古墳文化の成立

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 方墳あるいは方形周溝墓として成立してきた墳丘をもった弥生古墳は、弥生末期(または古墳発生期)に巨大な墳丘をもち、被葬者個人の墳墓としての前方後円墳や前方後方墳となった。近藤義郎氏に従えば、被葬者の権力が飛躍的に高まり、他を圧倒したときに、彼は唯一最高の神人的支配者となり、壮大な円丘・方丘に隔絶され、それに方墳・方形周溝墓が付設されて前方後円墳・前方後方墳となったのではないか。そして、最初の前方後円墳・前方後方墳は平面形が単に柄鏡のような形になるものではなく、柄の先端が三味線のバチのように開くもので、そのバチ形こそ方形墳・方形周溝墓の形象と考え、円丘・方丘とバチ形の間を結ぶ方形部は通路で、まもなくバチ形がとれて柄鏡式の前方後円墳・前方後方墳ができあがったものと述べている。
 前方部先端のバチ形に開く古墳として、奈良県箸墓古墳、京都府椿井大塚山古墳、兵庫県吉島古墳(前方後円墳)、岡山県車塚古墳(前方後方墳)などが指摘されており、いずれも平面図では前方部の先端はバチ形に広がっている。箸墓古墳は全長二七〇メートル、椿井大塚山古墳の全長は一八五メートルの壮大な前方後円墳で、これに対し瀬戸内の吉島古墳は三六メートル、車塚古墳は五〇メートルというように畿内中心域のバチ形前方後円墳との間には、墳丘規模における著しい差があり、ほぼ同時にそれぞれの地域で独自に発生したものではあっても、それら古墳の被葬者の権力あるいは支配領域の差は歴然としたものがあろう。
 箸墓古墳は大和盆地の中央東端部に位置し、大和三山と並んで盆地のあちこちから望見することができる。発掘調査は実施されたことがないのでその詳細は不明であるが、宮内庁書陵部による墳丘の修復作業によって土師器壺や埴輪片が発見され、埴輪は岡山県ではじめて知られた特殊器台土器、特殊壺形土器、特殊円筒埴輪などと同種で、この点からも最古の古墳に数えることができる。とりわけ、前方部発見の壺形埴輪が後円部の円筒埴輪より新しいということは、最初に巨大な円丘をつくり、埴輪を樹立した後に、首長が埋葬されている円丘に対する祭祀の必要から前方部を付設したものではないかと理解することも可能で、箸墓古墳の後円部はバチ形前方後円墳・前方後方墳成立よりもさかのぼることが十分考えられる。
 椿井大塚山古墳は三二面以上の大量の鏡が副葬され、そしてそのうちの二二面の鏡と同じ鎔笵(または同種の型)で造られた鏡が全国各地の古墳から発見されていることであまりにも有名である。岡山県車塚古墳からも同笵鏡が出土し、関東の初期古墳である神奈川県真土大塚古墳や神奈川県加瀬白山古墳出土の鏡などとも同笵関係にある。これらの同笵鏡は三角縁神獣鏡で、邪馬台国女王卑弥呼が三世紀半に中国魏王朝から「銅鏡百枚」下賜された一群の鏡ではないかといわれており、この種の鏡が副葬されているほとんどの古墳は、各地における発生期の古墳と認められている。
 椿井大塚山古墳被葬者が生前に鏡を一括入手し、各地の首長に分配したものかどうか明らかではない。しかし彼はそうした立場の首長に近い存在であったと思われる。椿井大塚山古墳からは特殊壺形土器や特殊円筒埴輪が発見されていない。このため、最近まで埴輪は岡山県で生れ、それが畿内の古墳に取り入れられたと考えられていた。前述のように箸墓古墳から特殊土師器壺や特殊円筒埴輪が発見されたことによって、必ずしも埴輪樹立の風が岡山県地方で完成されたものとは結論づけることができなくなった。したがって、埴輪樹立の風の原形は、岡山から奈良・京都にいたる瀬戸内・畿内地域にあり、大和で成立し始めたものが、この地域に急速に波及したのではないかと考えられる。この時期に古墳も完成され、地域首長はその強力な権力の象徴としてバチ形の前方後円墳や前方後方墳を築造し、それによって権威を高め、地位の保全をはかった。
 こうして壮大な墳丘をもった古墳はつぎつぎ築造されるが、古墳営造に認められる首長の権力は絶大で、「大王」が出現したことを物語っている。
 前方部のバチ形に広く前方後円墳・前方後方墳から、まもなく後円部に比し前方部の巾が著しく狭くそして低い墳丘が生れ、この種の墳形は北部九州から東北地方にかけて波及し、各地において発生期の墳丘として把えられている。
 後円部・後方部に営まれた首長の埋葬施設は、竪穴式石室や粘土槨で、後者は前者にやや遅れて採用された施設であった。竪穴式石室は、板状剥離をする岩石を利用して割石をつくり、その一端を真赤なベンガラ液につけながら積み上げた長さ七メートル・巾一メートル・高さ一メートルほどの石室で、そのなかにコウヤキを縦に二つに割って内部をくり抜いた長さ六~七メートルの割竹形木棺を納め、首長の遺骸はその木棺に安置された。木棺の内外もまた真赤にぬられ、とくに遺骸には水銀鉱石である辰砂の紛末が多量にふりかけられた。
 石室の構築法は後円部に長方形の深い大きな土壙を掘ったあとに、その土壙壁の全面にもベンガラを塗り、壙底に粘土をしき、その上に割竹形木棺を置いて割石をつかみあげるのである。粘土槨は大きな土壙を掘りあげて底に粘土をしき、その上に割竹形木棺を置いて、その全体を粘土で覆い槨としたもので、割石に代って粘土で棺を保護したものと理解される。
 埋葬された首長には、生前と同様着用していた武器や装飾品はもちろん、この他に銅鏡、鉄刀、鉄剣、碧玉製の鍬形石、車輪石・石釧などの宝器が副葬された。