四 古墳文化の盛行

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 畿内地域の古墳文化は各地に現われた墓制を容認しながら地域文化の上に成立し、五世紀には東北南部から九州全域に認められた。畿内の古墳は巨大化し、この傾向は全国各地でも同様で、一定地域における最大級の規模をもつ古墳は五世紀の所産である。かつて丘陵や丘尾に営まれた古墳は、低地の徴高地に降り、墳丘は周辺の土砂を大量に積みあげ小山を形成した。巨大な墳丘をもった古墳は前方後円墳で、関東地方では最大級の古墳の一部に円墳が加わった。
 わが国最大の古墳は応神・仁徳陵古墳である。前者は全長四一五メートル、後者の全長は四七五メートルもあり、岡山県造山古墳は三五〇メートル、東国最大の古墳は群馬県太田天神山古墳で、二一〇メートルに達する。首長を納めた竪穴式石室内の木棺は姿を消し、代って割竹形・舟形・家形石棺が主流を占め、畿内の小規模古墳や地方の首長墓は前代からの粘土槨が中心であった。首長の遺骸は真赤な朱につつまれ、ときには石棺を朱で一坏にすることもあった。
 応神・仁徳陵古墳のような巨大な古墳はその周囲に陪塚をたくさんもっており、そこには全国各地の首長から献上された著しい量の鉄製武器・武具・工具などが埋納された。また、巨大な主墳には首長の着装品をはじめ、当時大陸からもたらされた金製や金銅製品が副葬された。碧玉製の鍬形石・車輪石・石釧は消滅し、副葬品はほとんど実用品であった。
 前方後円墳の形は前方部が発達して後円部と同規模をもつようになり、前方部の巾も高さも後円部と同じ位になった。くびれ部には造り出しといわれる方形部がつき、あたかも祭壇のようであるが、何のためにまた何に利用されたのかは分らない。墳丘に樹立された埴輪は万を数えるようになり、この頃になるとわずかではあるが馬・鳥・人物も埴輪として造形されるようになった。大部分は円筒埴輪で、それが墳丘を二重、三重に、また周溝(濠)の土堤にも並べられて石葺きの墳丘を一層きわだたせた。
 このような巨大な古墳を造るには人民の大動員が必要であった。畿内首長の墳墓造営では畿内の人民をはじめ、食料、築造資材などは全国から集めたのではなかろうか。これだけの力を持つ者こそ、強力な軍事力を背景として専制的政治を確立した大王に外ならなかった。彼らは地方首長を軍事組織化し、反抗する首長は次々と排除した。こうして、地方にも畿内政権を支えた首長を中心に、地域的政権が誕生したであろう。