五 農耕生活の発達

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 集落は弥生時代以来営まれた自然堤防や徴高地、関東では谷地に面する台地につくられた。すなわち、弥生時代とくに後期の集落はほとんど古墳時代の集落と重なり、農耕生活上の基本的要件には古墳時代になっても変らなかったことを意味している。
 しかし、農耕具においては弥生時代の木製から鉄製に進歩し、新しい土地の開発や耕作に適する馬鍬が現われ、灌漑土木工事は一層すすんだと思われる。稲の収穫具または草刈具としての鉄製鎌の普及は著しく、大小各種の鎌が出現した。刃の着装は今日と異なり、刃に柄頭への差し込み部の造りがなく、柄頭を割って刃の末端を差し込み、柄からはみでた部分を折り曲げて固定した。使用方法は今日と同じであったと思われる。農耕具などの柄は木製で、それに鉄製の刃をつけた。その形状は弥生時代のものとほとんど変らない。
 農具での鉄製品化は収穫具と農耕具に限られており、杵や臼など脱穀具はむしろ木製の方が優れていた。
 五世紀には竪穴式住居にカマドも現われはじめ、炉の米の煮炊用としての意味がうすらいだ。やがて、竪穴式住居のすべてにカマドが付設されるのを見ると、食生活における穀類への依存度が高まり、米の生産は向上したことがうかがわれる。とくに畑作は積極的にすすめられ、陸稲、大麦は多くの遺跡で発見されている。水稲の不足は畑作によって補っていたと考えられよう。また、畑地での果菜類の栽培も行なわれていた。
 前代からの階層分化によって集落にはすでにある程度の権力をもった指導者がおり、かつて共同の水田であったものも私有地化がすすんだ。集落内では小指導者を中心とした単位集団が形成されており、水田の私有は単位集団毎であったと思われる。新たに開墾された土地はもちろん集団の私有に帰したであろうが、地域首長や集落の指導者などによる農民動員の開墾地は彼らの私有になり、彼らの力を高める重要な役割をはたしたであろう。

山ノ神遺跡第3号住居址