六 横穴式石室の出現

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 五世紀前半代の北部九州を中心に、竪穴式石室の横に出入口のついた石室が出現し、まもなく本格的な横穴式石室に発展すると、畿内地域でも同種のものが採用された。
 北部九州の最初の横穴式石室は竪穴系横口式石室と呼ばれているもので、五世紀半をすぎて石室部(玄室)も出入口部(羨道)も大きくなり、内部で人が立てるようになった。こうして横穴式石室には死者を納める石棺や石障が設けられて死者が出るたびに埋葬することが行なわれた。北部九州に始まる横穴式石室における追葬の風は畿内で確立され、畿内的な横穴式石室は六世紀初頭に西日本から東日本の一部まで、関東へは六世紀半近くに波及してきた。
 横穴式石室は合葬・追葬という葬法を生み出した点で新しい時代の到来を告げたといえよう。六世紀前半頃までの横穴式石室の壁面は真赤に色どられ、石棺や死者にも朱を施し、竪穴式石室時代の伝統がなお強く残っていた。しかし、首長の埋葬施設であった古墳は首長一人のものではなくなり、首長とその一族が埋葬されるに十分な空間と機能をもったため、人々の古墳に対する考えに大きな転換をきたした。古墳が首長の権威を象徴することはなくなり、規模も小さくなったために有力農民、たとえば集落の指導者層であれば築造でき、古墳は単なる埋葬施設としての墓と化し始めた。