八 古墳の終焉

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 わが国最初の本格寺院として、五八八年に飛鳥寺建立の事業が蘇我氏によって開始された。その後相ついで畿内を中心に豪族による造寺が営まれ、現世利益の願いがこめられていった。こうして、きらびやかな寺院が出現し、それは豪族の権勢を象徴するものとして他を威圧するに十分であった。
 一部首長の古墳は七世紀になっても大きな規模をもっていた。たとえば蘇我馬子の墓といわれる石舞台古墳は、墳丘が一辺五〇メートル、外堤は一辺八〇メートルに達する方墳で、わが国最大級の横穴式石室の天井石に七〇トンの二個の巨石を利用し、いわゆる巨石墳を形成している。また、奈良県桜井市所在方墳の一つ、谷首古墳の横穴式石室にも巨石が利用されている。石室の玄室長は内測で六メートルで、その天井は石舞台古墳と同じく二個の巨石で覆い、奥壁の高さ四メートル、巾二・八メートルに二個の巨石を用いている。石室規模で最大と思われるのは奈良県橿原市の見瀬丸山古墳の全長二五メートルをこえる横穴式石室である。これは前述のように大王陵として最後の前方後円墳で、全長三一八メートルである。福岡県宮地嶽古墳や今里古墳なども巨石墳と呼ばれているものである。埼玉県若小玉古墳群の八幡山古墳も巨石を利用した横穴式石室を有していた。石室の全長は二六メートルに達し、墳丘は直径六六メートルを測った。
 六世紀後半から七世紀の首長墓は、墳丘規模の縮少傾向にあったにもかかわらず、横穴式石室だけは巨大化している。これは外観に意義を求めたかつての大王陵への一つの抵抗かとも受けとれるが、地域によってはこれまでに現われなかった大規模墳丘を造っている。たとえば、見瀬丸山古墳は大和で最大の墳丘をもっているし、千葉県竜角寺古墳群の岩屋古墳は、一辺八〇メートル、高さ一二メートルの方墳で、下総地域では最大といえる。二基の横穴式石室の石材に切石を用いており、決して巨石墳と呼べるものではないが、この地域における最末期の古墳で、白鳳時代の寺院といわれる竜角寺の建立と相前後して造営されたものと考えられる。
 首長らによる寺院造立の風は全国に波及し、千葉県竜角寺や上総大寺にみるように七世紀半頃には関東にも達している。彼らは自らの地域支配力を誇示する手段として、巨大な墳丘をもつ古墳に代って異国情緒豊かな寺院を建立していった。その頃、律令政府による葬制を規制したいわゆる『薄葬令』が出され、首長らの古墳造営への意欲がそがれてゆき、七世紀後半には永い間わが国の墓制としてあった古墳も消滅してゆくのである。